天才クライマーよりちゃんの山行記録

天才クライマーよりちゃんは世界をまたにかけて活躍しています。その幾つかを紹介します。

よりちゃんのカムチャッカ紀行!の巻
よりちゃん、ニューギニアに行く!の巻 『岳人』716 2006年10月号掲載
よりちゃん、念願のマッターホルンに登頂!の巻
よりちゃんのシャモニの休日!の巻
よりちゃん、アフリカに行く!の巻
よりちゃん、韓国に行く!の巻
よりちゃん、メキシコに行く!の巻
よりちゃん、ボルネオに行く!の巻
『岳人』
641 2000年11月号掲載
よりちゃん、イランに行く!の巻


よりちゃんのカムチャッカ紀行!の巻
アバチャ
 2,741m


2007年08月12〜14日

08月12日
パラトゥンカ温泉郷のホテル(フラミンゴホテル)から軍用の6輪駆動トラックを改造した車でアバチャベイスキャンプ(850m)に向かう。装甲車みたいな車を期待していた真はややがっかりする。暫くは舗装道路を走り、途中エリゾボの自由市場に立ち寄り見物。因みにトイレは有料(5〔RUB〕)。もう暫く舗装道路を走ると、川沿いの土石流/火山泥流の跡地のような、「道」とは言い難い凸凹「道」になり、6輪駆動が威力を発揮する。トイレ及び写真撮影(アバチャ(2,741m)(やや「歪」なコニーデ)、カリャーク(3,456m)(「綺麗」なコニーデ)etc.)休憩を何度か挟む。今迄に「調査」で何度もアバチャ(2,741m)に登った事があり、現在の本職は英語教師と紹介のあったロシア人ガイドのユリアさんに、そこら辺に転がっている石ころ(転石)を拾って「アンデサイト(andesite)(安山岩)ですか?」と聞いてみると「?」と、此方の言っている事が分からない様子。火山学を少しでも齧った事があるならばアンデサイト(andesite)(安山岩)が分からない筈はないので(尤もロシア語でなんと言うのかは知らないが)、より正確には調査の手伝いか何かでアバチャ(2,741m)に登ったという事なのだろう。折角火山学、地学、地形学の「講義」が聴けると思っていたのに残念だ。アバチャ高原(850m)に設けられたアバチャベイスキャンプ(850m)に到着すると、もう森林限界を超えており、日本列島でいうところの高山植物が彼方此方に咲いている。ガイドによるともう花の見頃は過ぎているとの事。また人に「慣れた」、或いは「無警戒」なジリス(地栗鼠)(子猫位の大きさのげっ歯類)がチョロチョロしている。しかし、構造土が至る所に見られるのかと思っていたが、車・バイク・人等により既に走り/踏み荒らされてしまったのか、見当たらない。
昼食後、体慣らしに双耳峰の、差別浸食による岩株(多分?岩)の岩峰(多分?岩の岩株)と思われる駱駝山(1,381m)にゾロゾロと「散歩」に向かう。安山岩質(多分)の火山礫、火山「灰」、スコリア等の火山砕屑物が成層に堆積した(アバチャ(2,741m)、カリャーク(3,456m)は成層火山)山麓を暫く進み(歩こうと思えば何処でも歩ける)、火山観測所(950m)を過ぎた辺りで休憩。右手(東)の岩稜は登攀の対象として、脆くはあるがそれなりに面白そうに見えたので、本職はクライミングインストラクターであるガイドのAさんに「誰かこの岩稜を登ったんですか?」と聞いてみると「こんな(ちゃちな)とこ誰も登っていない」との事。どうやらロウカルクライマーとプロのクライマーとでは同じ物を見ても見え方が違うようだ。火道の差別浸食による化石地形と思われる?岩(多分)のトアを左(西)に眺め、雪渓を少し歩き、右(東)から巻く様にして駱駝のコル(1,175m)に到着(16:10)、大休止。東の高い方のピークは最近落石事故があったとかで今回は登らず、西の低い方のピークを右(北)から巻く様にして下山にかかる。この頃(17:00)になると霧がかかり始めカリャーク(3,456m)は勿論、アバチャ(2,741m)も見えなくなりやや残念。ザックザックと火山観測所(950m)辺り迄斜面を下り、其処からは往路をアバチャベイスキャンプ(850m)に戻る。
夕食後、未だサマータイム、且つ北極圏に近い為充分明るい20:30に就寝。尤もより子は他の参加者と遅くまでウォッカを飲み交わしていたそうである。
08月13日
07:20、アバチャベイスキャンプ(850m)を出発、ゾロゾロとアバチャ(2,741m)に向かう。振り返ると昨日は霧で見えなかったアバチャ湾(カルデラ?)が望まれるが、目指すアバチャ(2,741m)、カリャーク(3,456m)は中腹より上部には雲が懸っている。火山観測所(950m)を過ぎた辺りから昨日の駱駝山(約1,200m)への「道」から右(東)に分かれ、スノウブリッジが架かる(越年性?)雪渓を幾つか渡り、緩い尾根に取り付く。また(越年性?)雪渓末端にはモレインモドキも見られる。標高1,000mを超えた頃からカリャーク(3,456m)が全貌を現し、その山麓には駱駝山(約1,200m)が今日はやけに小さく見え、他にラヴァドウムらしき小ピークも幾つか見える。シェルター(2,010m)で大休止(12:00)、昼食を摂る。この辺りからまともに風を受けるようになり、ヤッケ(上)を装着する。また此処から少し先から傾斜が急になるので大休止の内に砂・礫対策としてスパッツも装着。此処から見上げるアバチャ(2,741m)山頂付近は、日本列島では天候の悪化兆しとされる傘雲の中。日本列島での観天望気がここでもそのまま通じるのかどうかは判らないが心配である。雪渓をトラヴァースし、遭難碑と思しき(ロシア語なので全く読めない)プレイトの掛かる岩壁を右に巻くと、最後の急登となる。左(北)斜面には(山岳)氷河モドキがアイスフォールモドキを従えている。ガサガサ崩れて歩き難くはあるが、天候は回復傾向!すっかり晴れ上がった山頂付近には噴気が見られる。火山ガスによる息苦しさ、目の痛みを堪えて赤茶けた火口縁のコルに出る。火口を覗き込むと黒っぽい火山岩(多分安山岩)が、恐らくは熔岩として噴出したままの状態で埋め尽くしており、所々には白い積雪がコントラストとなっている。未だパーティーの最後尾はずっと下なので、遅れてきた参加者には後ろめたい気がするが、真1人火口縁の最高地点(2,741m)に向かう。北太平洋、東山脈(火山前線)の他の火山群迄見渡せ、「御鉢巡」までしたい気になるが、あまり他の参加者から離れるわけにもいかず此処から引き返す。全員揃った所で下山開始。シェルター(2,010m)を少し下った辺り迄は往路を辿り、此処から稜線の右(北西)斜面を一気に下る。富士山(3,776m)の砂走のようだ。またカリャーク(3,456m)山麓には、往時には気が付かなかったフラクタルな雪食窪、雪食圏谷が見られる。火山観測所(950m)の手前からはまた往路をアバチャベイスキャンプ(850m)に戻る。夕食時にビールで乾杯をした後、より子は勿論、宴会の嫌いな真も今日は珍しく他の参加者とウォッカを飲み交わす。漸く暗くなり始めた22:00に就寝。
08月14日
朝(といっても08:30)起きると雨!昨日がアバチャ(2,741m)のハイキングで実に運がよかった。恐らく皆そう思っているだろう。小屋(といってもコンテナハウス)から200m程離れており、且つタイミングが悪ければ外で順番待ちしなければならないトイレにいくのも面倒だ。ゆっくりと朝食を摂り、その後は希望者のみ(約10名)雨の中ガイドと一緒に昼食(といっても13:00)迄アバチャベイス ャンプ(850m)周辺の雨の中のフラワーハイキングに出かける。ガイドのBさんはアツモリソウ、エゾノツガザクラ等の花・果実を見つけると色々解説してくれる。まるで「歩く植物図鑑」である。多くの植物に和名が付いているのは戦前は千島列島迄「大日本帝国」の領土だった為か?またヒグマがジリスの巣穴を掘り返した跡もある。そうこうしているうちに雨も上がり、霧も少し晴れて来る。一時的に見えたアバチャ(2,741m)の山頂部分は真っ白。どうやら上部では雪だったようだ。のんびり「散策」した帰路、3日目にして条線構造土が見られ、真は漸く気が済んだ。アバチャベイスキャンプ(850m)に戻り、パッキングを済ませ、ゆっくりと昼食を摂った後、往路と同じ6輪駆動車でアバチャ高原(850m)を後にする。途中再びエリゾボ自由市場着に立ち寄り御土産の買物を済ませ、パラトゥンカ温泉郷のホテル(フラミンゴホテル)に到着。今回のハイキングツアーを終える。


よりちゃんニューギニアに行く!の巻
ヴィルヘルム山 4,509m

“クライム クライム ショー” 3ピッチ W、W、V-
“ゴット イスト ニヒト ミット ウンス” 4ピッチ V+、W、V、V-

2005年08月15〜19日

概説

ニューギニアのヴィルヘルム(4,509m)において2本の試登を行った(“クライム クライム ショー(注1)”(3ピッチ W、W、V-)、“ゴット イスト ニヒト ミット ウンス(注2)”(4ピッチ V+、W、V、V-))。事前に日本で入手した情報では「数ピッチ程度の小さい岩場しかない」、「(現地の山岳関係者は)過去にロック クライミングをしているのを見た事は無い」、「(この時期は)乾季の為夕立がある程度」等々。大して期待せずに、また「岩がダメなら滝でも登ってやるか」と考え、日本を発った。そして山行初日(15日(月))にアウンデ湖(3,570m)迄「偵察」に上がってみると、その対岸には10ピッチ以上にはなるデカイ岩壁が聳え、真は思わず「ゴット イスト ミット ウンス!(神は我等と共に有り)」(ヴィルヘルム皇帝が将兵に与えたベルトのバックルの銘文)と「神」の存在を生まれて初めて確信した。しかし天候不良(乾季でも殆んど毎日、酷い時には1日中雨が降る)、滲み出し(比較的標高の高い所(約4,000m)迄ブッシュがある為)、乾き難い(当初我々の狙った南半球の南壁は北半球の北壁に相当)、日数不足(ヴィルヘルム(4,509m)の山頂も踏みたかったのでロック クライミングに充てられたのは2日(実質1日))等々の理由で満足な登攀は出来なかった。山行全体としてはそれなりに面白くはあったが、登攀そのものについては達成感が無く欲求不満が残り、初日に大喜びしただけに落胆も大きかった。
注1 ニューギニアの民族舞踊“シング シング ショー”のパロディー。
注2 ヴィルヘルム皇帝が将兵に与えたベルトのバックルの銘文“ゴット イスト ミット ウンス(神は我等と共に有り)”のパロディー。

15日
ベティイズ ゲスト ハウス(2,675m)から一路ピュンデ ハット(3,490m)に向かう。乾季である筈なのに朝から雨!事前に日本で入手した情報では「(この時期は)乾期の為夕立がある程度」ということだったが、今後の天気が気掛かりだ。ジャングルのぬかるんだ赤色土・黄色土のトレッキング コースを、体調に気を使いながらゆっくり登る。ガイドは時々サーベルのようなデカイ鉈を振るって整地している。何回かの休憩の後、雨も上がり、U字谷の名残を留める広く緩い谷に出ると見晴らしが良くなる。U字谷階段に出来た第1の滝(3,215m)を過ぎ、氷河湖であるピュンデ湖(3,490m)、そしてピュンデ ハット(3,490m)に着く。昼食後、ガイドのデイヴィット、メチューと共にアウンデ湖(3,570m)へ高度順化及び岩場の下見に向かう。やはりU字谷階段に出来た第2の滝(3,570m)を過ぎ、やはり氷河湖であるアウンデ湖(3,570m)に着くと、そのほぼ対岸である北岸には(おそらくは)手付かずの大岩壁が聳え立つ!「水面辺りから取り付いたら稜線(東稜)に抜けるのに10ピッチはあるんじゃないか!」、「傾斜がきついのは中間部(U字谷壁)だけで、下部(U字谷底付近)と上部(U字谷の肩付近)は楽に行けるんじゃないか!」、「稜線(東稜)に抜けた後、ギザギザの岩稜を辿ってドーム迄行くと20ピッチになるんじゃないか!!」、「ゴット イスト ミット ウンス(神は我等と共に有り)!」等々、2人の「指揮」は大いに高まり、想像(妄想)が膨らむ(その分、殆んど登れなかった後日の落胆も大きかった)。取り敢えず岩壁の基部までヤブコギしてでも行ってみよう、とガイドに促すが、「今日はだめだ」、「明日だ」、「此処から2時間はかかる」等々と首を縦には振らない。仕方が無いので、まだ時間もあることだし(13:45)、ガイドのデイヴィット、メチューを此処に残し、2人で東南稜のトレッキング コースを更なる高度順化及び稜線上の岩場の下見の兼ねて少し登ってみる事にする。途中、太平洋戦争中に墜落したB-25の残骸が散乱する所では思わず手を合わせてしまったが、ふと「恐らく彼らはキリスト教徒であったろう」と思い直し十字をきり直す。結局、肩(3,910m)迄登り、「やっぱりやるのはあの北岸の岩壁だ」と納得し下山にかかる。我々の下山が余りに遅かった為か、途中迄登ってきたデイヴィットと合流し、アウンデ湖(3,570m)でメチュー共合流し、ピュンデ ハット(3,490m)に戻る。夕食を済ませると、明日の登攀に胸を躍らせながら早めに就寝(19:30)。
16日
本来06:00に出発の予定だったが、ガイドが(我々の感覚ではダラダラと)出発を遅らせ、漸く07:00にピュンデ ハット(3,490m)を出発。「ビジン タイム」である。「ロック クライミングがこの目で初めて見られる!」と期待していると思われるポーター、コック等も一緒に来る。アウンデ湖迄はトレッキング コースを辿り、此処から湖畔を西回りに、まずはガイドのメチューが「偵察」として先行し岩場に向かう。彼の指示で残りのメンバーがゾロゾロと着いて行く。我々は日本でのヤブコギを漠然と想像していたのだが、実際には文字通り「ジャングルを切り開き」ながらの「行軍」である。通りで昨日はガイドが引き止めた筈だ。結局、湖畔のプラトー(3,570m)に着いたのは10:15。これから登攀の準備等をしていたら実際に岩壁に取り付くのは昼前になってしまう。この時点で「2日がかりで10ピッチ以上のルートを作る!」という我々の「野望」はほぼ潰えた。おまけに所々あるブッシュからの滲みだしが酷く、また此処南半球に於ける南壁は日当たりが悪く乾き難いと考えられる。それでも半日と1日で一気に登り切れそうなラインを目で探しては見るが、対岸から眺めた昨日とは違い、余りにも岩壁に近づき過ぎ、全容が掴めない。そうこうしている内にどんどん時間は過ぎてしまうし、「ギャラリー」は今か今かと「ショー」が始まるのを待っているようだし、気ばかりが急く。結局、岩壁下端の、それだけで3〜4ピッチ程度にはなりそうな、比較的滲みだしが少なくスッキリした、そして「ギャラリー」からよく見えそうな、別の言い方をすればアクシデントが発生した場合、直ぐ気がついてもらえそうな(尤も彼らに岩場でのレスキューが出来るとは思えないが…)スラブを登ることにする。ガイド等はプラトー(3,570m)迄とし、2人で取付に向かう。ほんの100m程のヤブコギにもハーハーと息が上がる。
1ピッチ 20m W スラブ ボルト×5(ビレイ点×2) ハーケン×1(回収済)
真がトップ。濡れて且つ浮石が多いスラブを、左のブッシュを使いながら騙し騙し登り始める。ムーヴがどうのグレイドがこうのという次元の問題では無い。唯ひたすら厭らしさに耐える登攀である。7m程登ると小さいレッジ、バンドが現れ一息つく。岩(花崗岩?)が異常に硬く、ボルトを3本打った時点で錐の先端は丸くなる。「通常」の2〜3倍のチビようだ。おまけにこの高度(約3,700m)では1本打つのに「通常」の5倍は疲れる。もう少しラインをのばした、腰掛けられる程度の安定したバンドで、短い(20m)が、上部の乾いて快適そうなスラブをより子に譲る気持ちも働いて、ピッチをきる。
2ピッチ 30m W スラブ〜段違〜スラブ ボルト×6(ビレイ点×2) ハーケン×2(回収済)
より子がトップ。1ピッチ目の終了点からは乾いて快適そうに見えたスラブだが、それは下部の10m程迄。上部はやはり濡れて且つ浮石が多く嫌らしいようだ。より子は「ラク!」、「ラク!」と頻繁に浮石を投げ落としている。段差2m程のスラブの段違の直下でピッチをきる。またこの頃から霧が出始め不安になる。貿易風の為、天気が東から変わるのが「新鮮」。
3ピッチ 30m V ブッシュ バンド〜段違〜スラブ ボルト×3(ビレイ点×2) 
真がトップ。段差2m程のスラブの段違をまともに登るとA0若しくはA1になりそうなのでグズグズのブッシュ バンドを5m程左上する。此処から、階段状とはいえ泥まみれになったクライミング シューズでは充分危険なので、念の為ボルトを1本打ち、上の極端に傾斜の落ちたスラブに抜ける。スラブをペタペタ歩き、ブッシュ帯でピッチをきろうとしたが、アンカーとしてはとても信頼出来ないのでボルトを2本打つ事にする。
霧が濃くなる中、ゼーゼー言いながら1本打ち終えた時点で遂に雹!が降り始め、数年前のキナバル(“ラフレシア”(5ピッチ))での恐怖が蘇る。大急ぎで2本目を打ち、セカンドのより子を上げ撤収開始。真は、うろたえていたのであろう、「チューバーが無い!」と1人で大騒ぎする(後でチューバーを本来のカラビナでは無く、その隣に掛けていたハーケン用のカラビナに間違って留めてしまい、下降には邪魔なこのハーケン用のカラビナをカム等と一緒にザックの中に仕舞い込んでいた事に気付いた)。45mのダブル ロープで1ピッチ目の終了点に降り、其処から45mのシングル ロープで取付に降りる。雨、雹が酷くならないうちにと大急ぎでパッキングし、プラトー(3,570m)で待機していたガイドのデイビット、メチューと合流(他の「ギャラリー」はもう既に帰っていた)。余りにも空腹だった為、より子の考案した「ジャパニーズ ランチ」(パンにマーガリンを付け砂糖をまぶした物)を手早く摂り、ピュンデ ハット(3,490m)に急ぎ足で戻る。
結果的には大した雨にはならなかったが、あの時点で登攀を中断してしまったのは仕方が無いであろう。
17日
今日も本来06:00に出発の予定だったが、またガイドが出発を遅らせ、漸く07:00にピュンデ ハット(3,490m)を出発。今日もまた「ビジン タイム」である。「ロック クライミング、特にアルパイン クライミングのルート工作は、見物するには時間が掛かるだけで動きが少なく面白くない」ということが分かったのか、或いは本来の仕事が忙しいのか、今日は「ギャラリー」は着いては来ない。「南壁は滲み出しが酷く、且つ乾きにくい」という昨日の「戦訓」を生かして、乾きが早いであろう東南稜の岩峰北面に「転進」する。トレッキング コースをアウンデ湖を経てジャンダルム手前のコル(3,920m)に着く。この時点で08:50。此処から見上げたジャンダルムは圧倒的に大きく10ピッチ位にはなりそうだ。とても1日(恐らくは午後からまた雨になるであろうから実質的には半日)で抜けられる代物ではない。早くラインを決めないことにはどんどん時間は過ぎてしまうし、今日もまた気ばかりが急く。結局1日(半日)で一気に登り切れそうな、このコル(3,920m)手前の、稜線伝いに行けば唯の岩稜歩きになってしまいそうな岩稜を、北面の岩の露出した箇所を選んで登り「お茶を濁す」事にする。我々が緊急用にと持参したテントを設営し、風邪気味のガイドはこのコル(3,920m)で待機してもらう事にする。また、天気が悪くなったら直ぐに下山開始することを約束し、我々は5分程今来たトレッキング コースを戻り岩に取り付く(3,900m)。
1ピッチ 45m V+ 階段状スラブ ボルト×2(ビレイ点×1) ハーケン×1(回収済)
今日はより子が最初にトップ。簡単な階段状スラブをテクテク登る。余りにも簡単なので途中わざと「ん!」という箇所を混ぜたようだ。カムとボルトとでアンカーを取る。
2ピッチ 40m W スラブ〜フェイス〜スラブ ボルト×3 ハーケン×1(回収済)
真がトップ。1ピッチに引き続き簡単な階段状スラブをテクテク登り、バンド、レッジが適度にあるフェイスを快適に直登するともう稜線に抜けてしまった。ロケイションは最高。昨日は見えなかった、この尾根を挟んだグルグクグル湖(氷河湖)、アウンデ湖の更に上部の小さい氷河湖が初めて目に飛び込む。2個のカムでアンカーを取る。
3ピッチ 30m V リッジ ボルト×1(ビレイ点×1) ハーケン×1(回収済)
より子がトップ。簡単なリッジをテクテク進む。このピッチもまた余りにも簡単なのでまた途中わざと「ん!」という箇所を混ぜたようだ。カムとボルトとでアンカーを取る。この頃より霧が出始める。
4ピッチ 20m V- リッジ ボルト×2(ビレイ点×2) 
真がトップ。3ピッチに引き続き簡単なリッジを20m程テクテク進んだ小ピークに着くとその先は15m程の断崖。忠実にリッジを辿るには懸垂下降が必要だ。短いがボルトを2本打ちピッチをきる。
より子が来た時点(12:45)で霧が酷くなり、このまま懸垂下降を交えてのリッジの登攀を続けるかどうか、休憩がてら相談する。技術的には何も問題は無いが、気掛かりなのは天気である。ガイドと天気が悪くなったら直ぐに下山開始することを約束したこともあり、且つ明日はヴィルヘルム(4,509m)の往復を予定しており疲労を残しておきたくは無い。結局此処迄とし、北面に有る筈のトレッキング コース目指して懸垂下降を始める。霧で視界が無い中45mのダブル ロープで1回降りると緩斜面に着く。此処から10m程歩いて下るとまた岩壁に出る。相変わらず霧で視界が無く、「もう1回懸垂下降しよう」と更にアンカーとしてボルトを1本打ち、2本目を打っていると、一時的に霧が少し晴れ、ガイドのデイビットがひょっこり現れるではないか!どうやら彼はこの北斜面をトラヴァースして来たようだ。デイビットについて行けば歩いてコル(3,920m)迄戻れる筈だが、折角ボルトを打った事も有り、またデイビットも我々の行動を物珍しそうに見ていることもあり、このままデイビットも一緒に懸垂下降する事にする。真のハーネスをデイビットに貸し、真はシュリンゲで作ったチェスト ハーネスで、より子はそのまま自分のハーネスで、それぞれシングル ロープでトレッキング コースに降りる(後から考えると真は、自覚してはいなかったが、高度障害で「思考力」、「判断力」が落ちていたのだろう、いくらバック アップをしたとはいえ、「通常」ならば全くの素人に、必然性も無いのに懸垂下降させはしない)。3人でコル(3,920m)に戻り、焚き火をしていたメチューとも合流し、テントを撤収。今日は「ジャパニーズ ランチ」をゆっくり摂り、それから「雨が降り始める前に」と足早にピュンデ ハット(3,490m)に戻る(15:30)(実際ピュンデ ハット(3,490m)についてから直ぐに雨が降り始めた)。
夕食後、もし明日(といっても深夜01:00)晴れていれば(酷い雨で無ければ)ヴィルヘルム(4,509m)を目指し、晴れていなければ(酷い雨であれば)第2の滝の登攀をする旨をガイドと共に確認し、就寝。
18日
本来01:00に出発の予定だったが、またまたガイドが出発を遅らせ、漸く01:50にピュンデ ハット(3,490m)を出発。今日もまたまた「ビジン タイム」である。こんなことなら始めから1時間余分に睡眠をとっておいた方が良かった。星は出ておらず、「今回こそは南十字星・マゼラン銀河を見るぞ!」と期待していたのに残念だ。まあ雨が降って頂上往復が中止になるよりはマシだが。ヘッド ランプを点け唯黙々と登る。遅く出発した我々のパーティーは、ハイ ペースのようで、水場(3,580m)付近で先行パーティーに追いつき、追い越してしまう。しかしその後ガイドのデイヴィット、メチューはコース ファインディングに自信が無いのか、頻繁に歩きを止め、後続の「格上」と思しきガイドのパーティーが追いつくのを待つ。以前から山頂往復に気乗りがし無いようだったのはガイディングに自信が無かった為なのかと考えてしまう(実際、比較的明るくなってから(06:00〜)は、2人のガイドはもう後続パーティーを気にせずスタスタ登るようになった)。4,200mを超えた辺りから小雨が降り始め、殆んど休憩出来なくなり、真は歩行速度が落ちる。頭痛がしないだけいつもよりはマシではあるが。一方のより子はいつも通り「高山病って何?」という顔でスタスタと登っている。雨が降り始めた事もあり、もともと余り気乗りがし無いようだったガイドは何かと(英語で)話しかけ、早く引き返したい素振りだが、真はよく分からない振りをする(今迄も英語でのコミュニケイションが上手く言っているとは言えなかったが、少なくとも分かろうとする努力はしていた)。(真にとっては)やっとの思いで山頂(4.509m)に着く(07:05)が、雨の中全く視界が無く、唯登っただけで、直ぐに下山にかかる。高度が下がって楽になる筈なのだが、降雨の中落ち着いて休憩する事は出来ず、真は更に歩行速度が落ちる。一方、より子とガイドのデイヴィットはサッサと下ってしまう。夫を見殺しにする酷い妻だ。疲労困憊の真はヨタヨタとピュンデ ハット(3,490m)に辿り着き(10:30)「沈没」。勿論昼食、夕食共まともには摂れなかった。圧倒的な体力の差、体質の差(ゲノムの個人差は精々0.01%、されど0.01%)である。一方(一応は)美術教師であるより子は、「何も出来ず寝たきり」の真を尻目に、鼻歌を歌いながら珍しくスケッチ(真はより子がスケッチ ブックを開くのを5,6年ぶりに見た!!)。真の作ったルートなど10年もすれば朽ち果ててしまうだろうが、天才芸術家の残した作品は1,000年後の人類にも感銘を与えるだろう。
19日
下山日。朝食後直ぐに出発出来るように早め(04:30)に起床しパッキングする。真の体調は朝食を摂れる位には回復している。今日もまたまたまた「ビジン タイム」で出発が30分程遅れるが、此処ニューギニアに「順応」したのか、高度障害で鈍くなっているのか、もう気にはならない。雨こそ降っていないが今日も曇天。霧の中に岩峰群も隠れており、見えない分殆んど登れなかった悔しさは軽減される。往路をピュンデ湖(3,490m)から第1の滝(3,215m)と、やはりジャングルのぬかるんだ赤色土・黄色土のトレッキング コースを下る。ベティイズ ゲスト ハウス(2,675m)でデポを回収し、大休止。道路状況が悪く、車が此処まで上がって来られないという事なので、更にケグルスグル飛行場(2,550m)まで下る(10:00)。此処にもう既に車が待機しているのかと思っていたら「ウェイト、ア フュー ミニッツ。」との事。「2,3分?20,30分じゃないの?」、「ひょっとしたら2,3時間じゃない?」と2人で軽口を言い合う。時折雨の降る中、暇潰しに露天で買った茹でたマメを食べたり(この辺りの集落には必ずといっていいくらい露天が広げられている)、農村風景の写真を撮ったりしながら路地で待つ(地面を平に整地しただけのこの飛行場には待合室など無い)こと4時間30分、漸く14:30に車が到着。「2,3日でなくてよかったね〜。」と何故か納得。1台のトラックの荷台に他のハイカー達と共に乗せられ、いざ出発。ぬかるんだ道路に車はハンドルを取られ、且つ急カーブ、急傾斜で、何時振り落とされるか、何時横転した車の下敷きになるか、と恐怖のドライヴである。10分程下った辺りで合流した別の車の、今度は客席に乗り移ったが、この10分間が今回の山行全体の「核心部」だった。途中、今度は左後輪がパンクするなどのトラブルが有ったが、クンデイアワの舗装道路に出た時には漸く生きて帰れた、と実感できた。


よりちゃん、念願のマッタ-ホルンに登頂!の巻 
4,478m
高度障害で生死の境を彷徨うまこと君は置き去りにされる!



2004年08月13〜14日

13日
シャモニ(1035m)から車でマッター谷(U字谷)の底のタッシュに入る。途中激しく褶曲した地層が見え、ユーロピアン・プレイトとアフリカン・プレイトとの衝突(アルプス造山運動(中生代-ジュラ紀〜新生代-第3紀))を実感する。U字谷の肩、U字谷階段、懸谷、メディアル・モレイン、ティル、ティライト等氷河地形の連続。タッシュから電車に乗り換えU字谷の底のツェルマット(1,620m)に着く(ツェルマットでは一般車両は乗り入れ禁止、電気自動車のみが走る)。ヴィンケルマッテン(1,650m)で最初のロープウェイに乗り込み、U字谷階段の中継点で次のロープウェイに乗り換え、U字谷の肩のシュヴァルツゼー(2,583m)で昼食。真はそろそろ高度障害で気分が悪くなり始め、“ダイアモックス”を服用。おかげで小便が近い。赤い岩壁のヒルリ(2,688m)をハーハー言いながら越し、写真撮影と称してしばしば休憩をする。クレヴァス、セラック、アイス・フォール、カール、谷柵、氷河湖、岩石盆地、羊背岩、懸谷、アレート、ホルン、エンド・モレイン、ラテラル・モレイン等々見るもの全てが新鮮。ツムット氷河(谷氷河)を挟んだ対岸に典型的なメディアル・モレインが見え、またヌナタクの屹立するフルグ氷河(谷氷河)の向こうにはブライトホルン(4,165m)が見える。フラフラしながらヘルンリ・ヒュッテ(3,260m)に到着。此処からはソルヴェイ・ヒュッテ(4,003m)は勿論、山頂も直ぐ近くに見える。「明日は楽勝」と思い込みたい。夕食後また“ダイアモックス”を服用し直ぐに就寝。御蔭で小便に4回も起きる破目になった。より子も緊張しているのかうなされ、こっちまで起こされた。
余談 恐竜並みの気嚢システムを持つより子は、効率的にO2(g)を取り込んでいるようで、いつも通り「高度障害って何なの?」という顔をしていた。
14日
03:45起床、朝食を手早く済ませヘルンリ・ヒュッテ(3,260m)からヘッド・ランプを点け、アンザイレンして出発。ハーネスを装着した状態では頻繁には小便は出来ないので“ダイアモックス”は服用しない。取付では順番待ち。上からヒトが落ちてくるのではないかと気が気でない。アルプスの登山ではこれが当たり前なのかもしれないが…。暗闇の中ガレ場を登り進む。プロのガイドにリードされているとはいえ、(ガレ場ではなく登山スタイルが)恐ろしいことこの上ない。途中、拳大の落石を1回右手に受けるが「ノウ、プロブレム」。所々で渋滞、順番待ちで一息つく。天の川がよく見え、金星(明けの明星)がオリオン座の直ぐ近くに見える。ソルヴェイ・ヒュッテ(4,003m)の手前でアイゼンを装着、足捌きに気を使う。ソルヴェイ・ヒュッテで大休止、ヘッド・ランプを外す。ツルム(4,200m)辺りで高度障害が更に酷くなり歩行スピードが著しく落ち始める。景色を楽しむ余裕など無くなり、ただ目の前のガレ場にしか目が向かず、いつも通り「生死の境を彷徨い」始める。真にとっては4,000mは「死の地帯」である。4,250m地点で、吹き曝しの岩稜に出たこともあり、ついにガイドに「印籠を渡され」(ガイドは“ウィンディ”と言ってはいたが、本音は「歩くのが遅すぎる!」であったと思う)、残り標高差228mが登れなかった(歩けなかった)。恨めしい思いをしつつ下り始めるが、何でも無い下りの筈なのだが以外に足が疲れる。途中今度は頭大の落石!咄嗟に岩陰に伏せる。運良く外れた(止まった?)が、あんなのに直撃されたら「ノウ、プロブレム」では済まなかっただろう。ソルヴェイ・ヒュッテで大休止後、ヒョロヒョロとヘルンリ・ヒュッテに辿り着く。山頂に向かったより子を待つ間、水分補給をし、行動食を摂るが気分はいつも通り優れない(行動食が摂れるだけまだマシか)。1人だけ登頂して‘ハイ’になったより子と合流後、ロープウェイの時間に間に合いそうなので下山にかかる。今頃になって(高度が下がった為もあり)真は快調になり、快適にハイキング。より子だけ登頂した事が面白くない真はグチャグチャ言い続けるが、「チョー御機嫌」のより子に軽く受け流される。時々マッターホルンを振り返ってはより子はニンマリし、真は更に面白くない。シュヴァルツゼー(2,583m)からロープウェイを乗継ぎ、ツェルマット(1,620m)に到着し、今回の登山も無事終了。タッシュを経てシャモニ(1035m)に戻る。2人共疲労が著しく直ぐに「意識不明」(熟睡)に陥ってしまい、景色を楽しむことは出来無かった。より子にとっては人生で最良の1日であったようだが、真にとっては人生で最も面白くない1日であった。
余談 シャモニに着くと丁度この夜はガイド祭りで、ライト・アップされた様々なアトラクションを楽しむことが出来た。特に「オウンリー・ワン・サミッター」のより子は、祝福されているようで、さぞイイ気分だったことだろう。






よりちゃんのシャモニの休日!の巻

その一 ブレヴァン 2,525m



2004年08月11日

ホテル(1,035m)からロウプウェイのシャモニ駅(1,070m)迄歩き、U字谷の肩のプランプラ(1,999m)にU字谷壁を一気に上がる。この辺りはパラグライダーが盛んなようで沢山飛んでいる。暫くは周氷河作用のソリフラクションよる、周氷河地形の岩石氷河(結晶片岩(中生代-Jura紀〜新生代-第3紀))の斜面を進む。時差ボケの為気分が優れず、写真撮影と称してしばしば休憩をする。若干曇り気味ではあるが、山麓氷河、谷氷河、圏谷氷河、懸垂氷河、それらの氷河、特にU字谷階段に発達したクレヴァス、セラック、アイス・フォール、氷食地形のカール、懸谷、それらの谷に発達した谷柵、岩石盆地、氷河湖、エンド・モレイン、ラテラル・モレイン、メディアル・モレイン、アレートのシャモニ針峰群、ドリュ(3,733m)、ホルン、ヌナタク等々が見える。眼下のU字谷の底にはシャモニの町並み。いずれも普段日本列島に住んでいる我々にとっては物珍しい。また山頂直下には氷河湖のブレヴァン湖(2,127m)。この辺りは氷河が後退して久しいのか、単に真の観察眼が貧しいだけなのか、あるいはそれらの相乗作用か、氷河擦痕、羊背岩等は良く解らない。山頂からは大戦末期ドイツの山岳猟兵と連合国の山岳部隊とが争奪線を繰り広げたモン・ブラン(4,810m)が時折雲の合間に望まれる。天気は下り坂だし、じっとしているとやや寒いので30min程で下山。

その二 Aiguille Crochues 2,840m



2004年08月12日

ガイドの車に分乗しホテル(1,035m)を出発。プラ(1,060m)でロウプウェイに乗り、U字谷の肩のフレジール(1,877m)迄U字谷壁を一気に上がる。此処から更にリフトに乗り換え、ランデックス駅(2,385m)から登山開始。暫くは氷食地形のカール底、周氷河作用のソリフラクション による、周氷河地形の岩石氷河(結晶片岩 (中生代-Jura紀〜新生代-第3紀))の斜面をトラヴァース気味に進む。岩場に入り、アンザイレンして早々、より子のお下がりのプラスチック・ブーツの右の底が剥がれ始め、ヒヤリとする。みんな知らん顔。真を見殺しにするつもりのようだ。右足が気になり景色を楽しむ余裕も無い。暫くは騙し騙し氷食地形のアレートを登り降りするが、余りにも危険な為、先行パーティーの懸垂下降を待つ間、安定した場所で、取り敢えずはガム・テイプで補修、一息着く。直ぐに擦り切れるのではないかと思ってはいたがが、やはり心配した通り直ぐに擦り切れる。仕方が無いのでザックの紐を外し、再び補修。取り敢えずは一安心だが、今度は左のプラスチック・ブーツの底が剥がれ始めるのではないか、と気になり始める。そうこうしている内にアレートの縦走は終わり、Col Des Dards(2,790m)からカールに出来た雪渓(圏谷氷河?)に下り登攀終了。壊れた靴で歩くには危険な岩稜を抜けたこともあり、ホッとする。途中グリセードを交えてU字谷階段、U字谷の底を下る。氷河擦痕も見られる羊背岩のあるブラン湖(2,352m)で大休止。此処で心配していた通り、左のプラスチック・ブーツの底が剥がれ始めているのに気付く。更にもう1本ザックの紐を外し、再び再び補修。フレジール(1,877m)迄景色を「楽しみ」ながら淡々と下る。山麓氷河、谷氷河、圏谷氷河、懸垂氷河、それらの氷河、特にU字谷階段に発達したにクレヴァス、セラック、アイス・フォール、氷食地形のカール、懸谷、それらの谷に発達した谷柵、岩石盆地、氷河湖、エンド・モレイン、ラテラル・モレイン、メディアル・モレイン、アレート、ホルン、ヌナタク。眼下のU字谷の底にはシャモニの町並み。いずれも普段日本列島に住んでいる我々にとっては物珍しい。勿論大戦末期ドイツの山岳猟兵と連合国の山岳部隊とが争奪線を繰り広げたモン・ブラン(4,810m)、アレートのシャモニ針峰群、ドリュ(3,733m)も良く見える。朝とは逆にフレジール(1,877m)からはロウプウェイでプラ(1,060m)迄一気に降り、ガイドの車に分乗しホテルに戻る。

その三 エギーユ・ド・ミディ 3,842m

2004年08月16日

ロウプウェイの駅のあるLes Barrats(1,035m)(U字谷底)から少し南に入った樹林帯からハイキング開始。U字谷壁をジグザグに登る。周氷河作用のソリフラクションによる、岩石氷河が出てくる1,600m位が森林限界。突然「ゴー」とジェット機と思われる大音響がするので、経験的にその進行方向に目をやると、なんと“ミラージュ”がシャモニ(1,035m)のU字谷の肩辺りの低空をスイス国境方面に向かって滑るように飛んでいるではないか!!「カッコエー」と思わず溜息が出、見ているだけでハイになる。ひょっとするとまた戻ってくるのではないか、と期待して暫く待っていると、期待に応えてくれた訳でもないのだろうが、また「ゴー」という大音響を従えて、恐らくは同一の“ミラージュ”が今度はスイス国境方面から、やはり低空を滑るように飛んで来た!!再び「カッコエー」と思わず溜息を漏らし、ハイになった。遥々フランス迄来た甲斐があったというものだ(因みにこの間より子はシラケきっていた)。樹木限界でもあるU字谷の肩の“下の小屋”(2,180m)で大休止。先日ハイキングしたブレヴァン(2,525m)がシャモニのU字谷を挟んでほぼ真向かいに見える。またこの辺りの羊背岩には氷河擦痕が見られる。エンド・モレインによる氷河湖-モレイン堤湖の直ぐ近くのプラン・ド・レギーユ(2,310m)からロウプウェイに乗り、鈴木謙造氏が墜死した北壁を、一気にエギーユ・ド・ミディへ。アレートの一つのピークである山頂の「裏」側(イタリア側)には山麓氷河、谷氷河、圏谷氷河、懸垂氷河、それらの氷河、特にU字谷階段に発達したにクレヴァス、セラック、アイス・フォール、氷食地形のカール、懸谷、それらの谷に発達した谷柵、岩石盆地、氷河湖、エンド・モレイン、ラテラル・モレイン、メディアル・モレイン、アレート、ホルン、ヌナタク。グランド・ジョラス(4,208m)北壁も望まれる。眼下のU字谷の底にはシャモニの町並み。生憎、大戦末期ドイツの山岳猟兵と連合国の山岳部隊とが争奪線を繰り広げたモン・ブラン(4,810m)の山頂部は霧の為見えないが、それでもMont Maudit(4,465m)辺りを登山中(下山中)の登山者も見える。半日程ぼんやりとしていたいのだが、天気は下り坂。じっとしていると流石に寒いので1時間程で下山にかかる。またロウプウェイでプラン・ド・レギーユに戻り、“下の小屋”からは今度はボソン氷河を間近で見るべく“ボソン氷河展望所”に向かう。この頃より小雨がパラつき始めるが、直ぐに樹林帯に入り余り気にはなら無い。氷河の雪解水で白濁している川を2本渡り辿りつくが、残念な事に、急傾斜で氷河末端の崩落の危険がある為だろう、数百m手前で立入禁止(フランス語で書かれている為正確には解らないが、何となくそういう雰囲気)!指を咥えて魅力的な光を「放つ」(反射する)青氷を眺めるに留まった。真は「ボソン氷河をこの手で触ってみたかったのに…」とブツブツ言いながらLes Barratsに戻る。


よりちゃん、アフリカに行く!の巻
ケニャ山 
4,985m
 

2003年08月14〜16日

14日
早朝、ナイロビ(1,700m)から送迎車で一路、ケニャ中央高原(地殻-大陸地殻-クラトン(花崗岩))をナロモル(1,980m)に移動。途中ボーンハルト、ワジを眺め、ケニャ最長の河川であるタナ川を渡る。またあちこちで脆く痩せた熱帯土壌のラテライトから日干し煉瓦を作っている。ナロモル リヴァーロッジで山岳ガイドのポールと合流し昼食。ここからはロッジのジープに乗換え、ミネラルウォーター等を買出しし、ポーターを拾い、いよいよケニャ山ナショナルパークに入る。ゲートで入山手続を済ませ、途中レオパルドをチラッと見、3,040mのメットステイション迄一気に上がる。山小屋ハゲニアに入り、雨も降り始めたため暫くダラダラする。夕方、高所トレイニングを兼ねてアンテナ施設(3,175m)を往復。バッファローのウンコがやたらと多い。ディック・ディック、レイカー、マウンテンチャットを見る。富士山、定圧低酸素室での事前の高所トレイニングが功を奏してか比較的気分は悪くない。
15日
富士山、定圧低酸素室での事前の高所トレイニングが功を奏してか比較的良く眠れた。暫くはハゲニア、エリカ等のジャングルの緩斜面をグラジオラス、エバラステンフラワーや名も知らぬ花を眺めながら進む。時折ディック・ディック、レイカーなどが姿を見せる。森林限界(3,300m)を過ぎると急に展望が開け、ケニャ中央高原(地殻-大陸地殻-クラトン(花崗岩))が望まれる。緩い尾根から左手のテレキ谷(U字谷)に降り、ロベリア等の「変な」植物の多い湿地帯を暫く進むとマッキンダーズ キャンプ(4,300m)。この辺りはマウンテンチャット、猫くらいの巨大なげっ歯類が多く、2m位まで近づいても逃げない。昼食を済ませるともうやることはない。霧雨の中、時折のピーク ジョーン(アレート)が目の前に現れる。暇潰しに真は高所トレイニングの為、更に200m程ダラダラ登り、より子は他のハイカーと共に日本、ケニャ、スペイン3国のバレー親善試合に興じる。明日朝早朝(03:00)出発の為、早めに夕食を採る。真は高度障害のためか食欲がなく、それでも食べられる時に食べておこうと2/3を無理矢理喉に押し込む。より子は高度障害及び風邪のため著しく不機嫌になり、日本茶しか摂れず、看病している真に悪態をつく。山岳ガイドのポールに明日の朝気分が悪ければ此処でお留守番と言い渡される。就寝はするものの、2人とも気分が悪く眠れない。
16日
気分の良くなったより子も含めて深夜(03:00)、ケニャ山(4,985m)目指して出発(雨が降り始める昼過ぎには下山しておく為)。高度障害の為か、眠れず、頭もすっきりしない。大接近中の火星、天の川は良く見えるが、期待していた南十字星は雲に隠れ、マゼラン銀河は見えない。1時間も歩くと、暗闇の中、ピーク ジョーン(アレート)(4,883m)のシルエットが迫ってくる。ひどい吐き気をもよおし、まともに歩けなくなったので山岳ガイドのポールに荷物を持ってもらう。より子は「流星を2つも見た」とはしゃいでいるが、真はそれどころではない(真は1つしか見ていない)。もう暫く登るとオーストリアン ヒュッテ(4,790m)。漸く空も薄明るくなってきた。此処で山岳ガイドのポールにケニャ山(4,985m)迄登るか、此処でお留守番をするか問われるが、あと危険箇所のない緩い登りが1時間だと分かっているので“I want to climb.”と答える。キンバライト(火山岩、超塩基性岩。大陸地殻-クラトン(花崗岩)の東アフリカン プレイトの分離運動に伴う火山活動により、マントルが噴出したもの)の露岩地帯を進み、ちょうど日の出の瞬間にケニャ山(4,985m)。無酸素呼吸の原始的な生物であるより子は大はしゃぎであるが、真は生死の境をさ迷い始める。山岳氷河の圏谷氷河、氷河地形のU字谷、カール、アレート、懸谷、氷河湖、ヌナタクの化石地形、エンド モレイン等等見所が沢山あるが、それどころではない。記念撮影を済ませるとサッサト下山開始。オーストリアン ヒュッテ(4,790m)で真はデポジットした荷物を回収。登りの時には気が付かなかった、数週間前に墜落した遊覧飛行機の遺品を認める。気分の悪い真は立ち止まり立ち止りしながらゆっくり下る。マッキンダーズ キャンプ(4,300m)に戻り大休止。より子は朝食を摂るが真はお茶のみ。以後真はこの調子でチンタラチンタラ下山。勿論、入山時にはあった景色を楽しむ余裕など全くない。途中予想より早く(12:20)3,600m地点で雹が降り始め、下るにつれて雨となり、湿原のバッファローのウンコ混じりの濁流を下る破目となった。(真にとっては漸く)メット ステイション(3,040m)に着き大休止。より子は昼食を摂るがやはり真はお茶のみ。ここからはロッジのジープに乗り込む。途中ジャングルの中に象を垣間見、ゲートで下山手続きを済ませ、ポーターを順次下ろしナロモル リヴァーロッジに着く。より子にとっては楽しい1日であったようだが、真にとっては臨死体験に近い1日であった。


よりちゃん、韓国に行く!の巻
雪岳山
 

2002年08月14〜16日

14日
飛仙台から将軍峰“既存ルート(キジョン・キル)”(7P、5.9〜5.10d)に取り付く。フリクションのよく効く花崗岩だが、全体的にプロテクションが遠くリードするには恐ろしい。ピッチを稼ぐにつれ高度感が増し、壮大な岩峰群が目の前に現れる。比較的平らなピークに抜け大休止。明日登攀予定の巨大な岩壁蔚山岩が間近に見える。3回の懸垂下降の後、金剛窟に下る。時間が中途半端だったのでキジョン5.11b/cをトップ ロープで遊ぶ。
15日
新興寺より継祖庵を経て巨大な花崗岩の岩壁蔚山岩に向かう。クラック、チムニー主体の“文理大ルート”(6P、5.10b)に取り付くが、霧のため視界が悪いのが残念。高度感も湧かない。フリクションのよく効く花崗岩だが、全体的にプロテクションが遠くリードするには恐ろしい。半端な時間に登攀が終了したので、直ぐ横の“ヴィーナス ルート”(6P,5.10a)を3ピッチだけ登り「お茶を濁す」。
16日
前日、前前日の既成ルートのフリー クライミングとは気分を変え、当初から狙っていた土旺城渓谷の岩峰(名称不明、目測5P、W)に新ルートを作るべく六潭瀑布、飛竜瀑布を詰める。登攀の準備をし始めたところで曇り空からとうとう小雨が降り始める。30〔min〕程待機したが止みそうも無く、岩も完全に濡れてしまったので潔く登攀は諦める。キナバルの雷雨が脳裏を掠める。何のために遥々日本から膨大な「工事道具」を持ってきたのか…。ボルト40本の重みが肩に食い込む。
仕方が無いので土旺城瀑布の「観光」に予定変更する。ここから上流は殆ど人が入らないのか道は非常に荒れており危険箇所も幾つもある。遡るにつれ両岸は壮大な岩壁となり、遂にはロープを出す。本来は新ルートを作るために持ってきたのだが…。霧の合間に見えた落差数百〔m〕の大滝は実に壮観。



よりちゃん、メキシコに行く!の巻
その一 ネヴァ・ド・トルーカ
 4,707m 

1999年08月20日

イスタシワトル(5,286m)を目標にした、北アメリカプレイト、ココスプレイトの衝突によるアナワク高原に形成された休火山(新生代-第3紀、環太平洋火山帯)の高所順応ハイキング火口縁直下(4025m)まで車で上がり、車から降りると直ぐに足元がふらつく。地元のヒトは平気な顔をして放牧している。貿易風の影響で、雲が東から西に向かって流れてくるのが“新鮮”。スケイルの大きい崖錐に圧倒される。火口縁から一旦火口原におり、典型的なラヴァドウム、2つの火口原湖(“太陽の湖”、“月の湖”)を横切る。スペイン「圧政」下の住居跡・墓地が“印象的”。再び火口縁に登り、板状節理の崩壊したリッジをハーハー言いながら詰め山頂。Viba Toluca!


その二 イスタシワトル 5,286m 

1999年08月21〜23日

21日
車でメキシコ・シティー(2,200m)からアメカメカを経てパソ・デ・コルテス(3,500m)に移動。
22日
早朝(03:15)霧雨の中、ラ・ホヤ(3,930m)を出発。ヘッドランプの明かりを頼りに、安山岩のガレ場をプラスチック・ブーツでゴトゴト登る。高度が上がるにつれ次第に明るくなり、隣のポポカテペトル(5,452m)の“巨大なシルエット”が浮かび上がってくる。また2000万都市メキシコ・シティーの夜景が“幻想的”。ヒュッテ(4,750m)辺りで完全に夜明け。貿易風の影響で、東から雲が流れてくるのが“新鮮”。オリサバ(5,699m)、一昨日高所トレイニングしたネヴァ・ド・トルーカ(4,707m)がよく見える。ザクザクの積雪が出てくるが、しっかりしたトレイルがあり、“快適”に高度を稼げる。標高5,000m台の主稜線からが正念場。じっとしているだけで息は荒れ、激しく脈打つ。青く(青氷?火山成分?)凝固した火口湖、雪原状の広い尾根、山岳氷河(アヨロコ氷河)上端をハーハー、ゼーゼーいいながら辿る。13:15、10〔h〕かけて漸く火口縁の一角の山頂に立つ。霧のため視界はほとんど無いが、時折、コルの向こうの“女神の頭”のラヴァ ドウムが見え隠れする。往路をそのまま引き返すが、気温が上昇したためか、あちこちで雪崩れている。標高5,000m台の主稜線を酸欠のため幾度も立ち止まりながら下降点までのろのろと進み、そこからヒュッテ(4,750m)まで一気に下る。以後積雪も無くなり、緊張も緩む。登行時には暗くて見えなかった方丈節理の発達した“圧倒的”'な岩壁を眺めながらラ・ホヤ(3,930m)に下山。
23日
車でパソ・デ・コルテス(3,500m)からアメカメカを経てメキシコ・シティー(2,200m)に戻る


よりちゃんボルネオに行く!の巻
キナバル山アレキサンドラピーク
 4,003m

“ラフレシア” 5ピッチ V+、V+、W+、V-

2000年08月10〜15日

10日
山行ガイド、山岳ガイド、ポーターに荷を振り分けて登山開始。昼前から早々に雨。3000m付近から時々霧の合間に見えるパナール・ラバン・ロックフェイスは圧巻。特にドンキーズ・イヤーズ、ラーマン・ピーク等の岩峰群が印象的。明日の登撃に備え早目に就寝。
11日
03:00起床、天気が悪いので出発を05:00にする。ハウスの食堂の営業時間の関係で、中途半端だが朝食を摂り、寝直す。5:00再起床、天気が良くなりつつあるので出発。広大なスラブを緩やかに登り、ツンと突き出たキナバルサウス峰(3933m)の“東壁中央ルート”(4ピッチ)に取付く。ポーターは先にウェスト・グルカ・ハットに向かわせる。山岳ガイドは取付に待機させ、登攀開始。実に快適である。ピークに抜けると山岳ガイドが先回りして待っていた。山行ガイドとも合流し、ハットに向かう。途中、真とより子はローズ・ビーク(4095m)に立ち寄るが、あいにくの霧であまり展望は楽しめなかった。広大なスラブを緩やかに下り、ハット着。夕食後、時間が充分あったので新しいラインを引けそうなアレキサンドラ南峰南稜を下見する。さあ明日が木番だ。
12日
昨日下見をしたアレキサンドラ南峰南稜に取り付く。1ピッチ目、真がルートエ作。簡単だが脆い。ハーケンを打つとリスがすぐに開いてしまう、確実な中間支点が欲しいため、ボルを2本打ち込む。50m一杯できる(V+)。2ピッチ目、より子がルートエ作。多少岩の状態がいいようだ。ボ/レトを1本打ち込み、45mできる(V+)。3ピッチ目、真がルートエ作。傾斜も出て来、登攀らしくなってきた。霧が出てきたが、フェイスから凹角へと快適な登りが続く。ボルトを3本打ち込み、50m一杯できる(W+)。より子がフォロウしてきた頃から急に霰混じりの激しい雷雨。セイント・ジョーンズ・ピーク南面の巨大なスラブが瞬く間に落差数百mの広大なナメ滝に変わる。上は防寒のためカッパを着ていたからそうでもないが、下がズブ濡れ。すぐに体温を奪われる。下降を決意し、取り敢えず1ピッチ懸垂下降で降りたが、濡れたロープが流れず、真が半分ほど登り返す。すぐ近くで頻繁に落雷があり、生きた心地がしない。寒さで手指の感覚がない。その場でロープを回収、中間支点に打ってあったボルト1本でより子のもとに懸垂下降し、漸く生きて帰られると思った。以後2ピッチ分は、それぞれロープ1本をフィックスして懸垂下降。明日以降のユマーリングに備える。取付に辿り着くまで随分長く感じたが、時計を見ると降り始めてから1時間程しかたっていなかった。雷雨はおさまったが、真は軽い低体温症気味なのか、気分が非常に悪い。ヒトは簡単に疲労凍死できるものだと思った。ハットに戻り一段落。真は夕食が摂れずコーヒーのみ。明日再び登攀出来るかどうか不安だ。
13日
昨日3ピッチまでルート工作したアレキサンドラ南峰南稜に取り付く。1、2ピッチ目はユマーリング。4000m前後のこの高度では単純作業でも息が上がる。3ピッチ目はより子がリード。充分楽しんでいるようだ。4ピッチ目からが今日のメイン、まずはより子がルートエ作。中間支点にボルトを1本打ち込み順調にロープをのばす(V-)。5ピッチ目、体調の優れない真がルートエ作。簡単な岩場を越えると呆気なく南峰(4000m)に抜けてしまった(V-)。もっと難しいところを選んで登れば良かった、と後から悔やむ。ここから北峰(4003m)までは簡単な岩稜のように見えるが、念のためロープ1本でのスタッカット。3ピッチで北峰着目の前にはヴィクトリア・ビーク(4100m)、その背後には南シナ海が望まれる。北峰・南峰間の簡単そうなルンゼの下りもロープ1本でのスタッカット。3ビッチで下りきる。真は緊張感も解け、体調の悪さが急に実感される。手も多少浮腫んでいる。ハットに戻ると山行ガイドが昼食のサンドイッチを作って待っていてくれた、真も多少食欲が出て来、少し安心。
14日
“ヴィクトリア・ビーク南壁’91年ルート4ピッチ)に向かう。取付に着いた頃から霧が出始め、先日の雷雨の恐怖が蘇る。1ピッチ(W)目はより子がリード。残置支点が沢山あり、順調にロープをのばす。 2ピッチ(X)目、体調は悪いが、真がリード。10m程ロープをのばした所でポツポツ降り始め、また風も強くなり始める。この先かなり時間がかかりそうなこともあり、下降を決める。真は、1ピッチ目の終了点のより子のもとにロワーダウン。そして懸垂下降。何とも中途半端な登攀になってしまった。ハットに戻り、昼食を摂った後、ワラス・ハットに向かう。途中からとうとう本降りになってしまった。
15日
朝、ハットから出ると正面には南シナ海、クロッカー山脈が遠望される。後ろを振り向くと、岩壁、岩峰が濡れて朝日に輝いている。下山開始。登山口に着く頃から雨。思えば山行中よく降られた。


よりちゃん、イランに行く!の巻

ダマバンド 5,671m 

1998年07月26〜28日

26日
レイネ(2050m)からモスクのある登山口(2910m)まで車で移動後、入山。疎らに低木のある、休火山・コニーデの砂礫地帯(安山岩)をゆっくり登る。真は時差ボケと低圧・低酸素のため頭がぼんやりする。高度が上がるにつれ、エルブールス山脈(摺曲山脈←ユーラシアプレート・イランプレート)の大パノラマが眼下に広がる。まさに“不毛の大地"。昼過ぎにアタックキャンプ(4200m)着。高所順応のため更に300m程ハーハー言いながら上り、山岳氷河-圏谷氷河を間近に見てくる。2人体共気分が悪く、夕食は半分しか摂れない。明日のアタックのため早めにシュラフにもぐり込む。
27日
アタックキャンプ(4200m)から頂上を(5671m)往復するべく4:30に起床するが、真は頭痛が酷く朝食も摂れない。“意識的”に呼吸をしないと“目の前が暗くなる”。休火山・コニーデの砂礫地帯(安山岩)をゆっくりと高度を上げるにつれ、更に低圧・低酸素となり、真は鼻の粘膜より少量出血、うろたえる。おそらくひどい顔つきだろう。また5300mより上になると火山性ガスのH2S,S0xなどの「臭気」により一層呼吸困難が酷くなり、真は無理に口にした行動食を吐く。ふらつく足取りで漸く山頂に立つが、霧と雪のため展望はない。カスピ“海”が見えるのではと期待していたのだが…。標高差100mの山岳氷河-圏谷氷河をグリセード、シリセードを交えながら真は死ぬ思いで下る。それでも呼吸が苦しく、時々へたりこんでは息を整える。一方“冷血女”のより子は高度障害?で“ハイ”になり、生死の境を彷徨う真には御構い無く超御機嫌である。アタックキャンプ(4200m)に戻ったときには真は死の一歩手前。テントに倒れ込む。無理に夕食を少量口にするが直ぐに吐く。シュラフにもぐり込むと、もう二度と目を覚ますことも無いのでは…と「意識」が遠のいていく。
28日
真は一晩生死の境を彷徨った挙句、漸く朝になる。真は多少高度順応したのか食事も少しは摂れる。一方気分の優れない真とは対照的に“冷血女”のより子は相変わらず“ハイ”のまま超御機嫌である。アタックキャンプ(4200m)より下山開始。時々、昨日死ぬ思いで登った、ダマバンド振り返りながら、砂礫地帯(安山岩)をゆっくり下る。モスクのある登山口(2910m)、レイネ(2050m)を経て地球最大の湖沼・海跡湖・内陸湖・塩湖であるカスピ“海”に向かう。