よりちゃんは今までもう少しで死ぬところだった事が何度もあります。その幾つかを紹介します。


よりちゃん、奇跡の生還!の巻

よりちゃん、あわや先行パーティーの転落に巻き込まれる!の巻


よりちゃん、奇跡の生還!の巻

大山北壁屏風岩 



1997年03月01日〜03日

01日
真、より子、Aの3人で、元谷で雪洞を作るべく早朝広島を出発した。ところが昼頃大山寺に着くと“雨”。15時頃小雪にかわったので元谷に向かった。しかし元谷も雪が少なく、地面がいたる所で 剥き出し。雪洞訓練は諦め元谷小屋に入り、早々にタ食、そして就寝。23時頃B・Cが到着。
02日
午後から天気が崩れそうなので4時頃起床。05時出発。真・Aパーティは6号尾根から取り付き縦走する。クラストした雪面はアイゼンがよく効き、弥山までは実に快適に登れたが、縦走路は所々地面及び根っこが顔をのぞかせ危険なのでコンテで通過した。三鈷峰を往復し、上宝珠越のやや下部の斜面から元谷に下りた(12時頃)。時間が充分あり、天候の崩れも然程ではなかったので(ただし山頂付近は荒れていただろう)、大屏風を登撃中のより子らのパーティをしばらく見物し、元谷小屋に戻った。より子らのパーティは大屏風の港ルート(5級下、8ピッチ)を登撃。16時頃岩壁を抜け下降開始。17時頃最後の懸垂下降でより子が転落後滑落。すぐにB・Cから元谷小屋にいた真、Aに事故の連絡の第1報が無線で伝わった。直ちにボート、スコップ、ザイル、シュラフ等を携えて現場の大屏風岩取付に向かった。痛がるより子をシュラフにくるみ、ボートに載せ、(よりによってメンバーの内、1番重たいヤツを運ぶことになるとは…)ずり落ちないようにザイルで縛り、搬送開始。元谷小屋下の大堰提までは比較的スムーズに降ろせたが、それより先の林道は雪がついてトラバースが困難なため、谷に降ろした。谷を下るにつれ雪が少なくなり堰提の露出もひどくなり、更に水量も増してきたため搬送は困難を極めた。ちょうどその頃米子県警の応援3人が到着。後は彼らの指示に従い、7人で右岸の登山道に運び上げ、神社を経由して救急車の待つ駐車場に到着(22:30頃)。ここで真は救急車に同乗して国立米子病院に向かい、後の3人は大山寺交番で事情聴取後、ボートの返却、荷物の整理などのため元谷小屋に戻った。
03日
03時頃病院で合流、今後の対策を講じる。真とAは精密検査の結果を聞き、その後の対応のため米子に残り(車泊)、B・Cは帰広。精密検査の結果、右足の踵・胸骨・椎骨骨折、左ひざの靭帯損傷、及び全身打撲と知らされる。広島総合病院のベッドが空き次第移動することとし、真、Aも取り敢えず帰広。




よりちゃん、あわや先行パーティーの転落に巻き込まれる!の巻

大山北壁天狗沢



1998年02月22日

21日
より子と真は夜遅く(22:00頃)元谷に着いた為、既に元谷小屋は満員、入ることが出来ず、小屋の前でツェルトを張った。すぐ近く(5m程)には別のパーティーが既にツェルトを張っていた。整地、ツェルトの設営や夕食で時間をとり、就寝も遅くなった(01:00頃)。
22日
我々は咋夜就寝が遅かったので起床も遅らせた(6:00頃)。準備の為一旦小屋に入り、天狗沢に向け出発(07:30)。天気はほぼ快晴、天狗沢上部に時々霧がかかる程度。咋日の昼間の雨で融解した雪面は昨夜の放射冷却による冷え込みでクラストし、ラッセルは殆ど無くアイゼンで快適に歩ける。絶好の登攀日和。天狗沢に向かっていると忠われる2人が大屏風岩手前に見え隠れした。
我々が天狗沢直下に到着した頃(08:30)には、先行パーティーは1ピッチ目を登攀中だった。我々は大屏風岩横のデブリを避け、墓場尾根よりの、やや傾斜の緩い斜面で登攀の準備をした。
我々は、先行パーティーが掘ったバケツだと思われる段差がデブリの上方30mの雪壁に見えたので、そこでビレイをしようと考え、とりあえず各々がそこまで登った。しかしそこに着いてみると、我々がバケツだと思っていた段差は実は雪面の亀裂だった。今直ぐに雪崩れるとはまず考えられなかったが、「気持ちか悪い」ので4m程右に迂回し、より子がトップで登り始めた。尚この時点では先行パーティーは既に我々の視界からは消えていた。氷壁の状態は今シーズン中最高。雪崩の心配も無く、ピッケル、アイスバイ、アイゼン共にしっかり食い込む。アイスハーケンも珍しくよく効いた。だが天狗沢は極端に難しいわけではなく、また極端に頃斜が大きいわけもないが、長い(約300m)。登り易い半面、最悪の場合一気に大屏風岩横のデブリ迄落ちてしまう危険性があった。珍しくより子が沢山中間支点を取っていた。
セカンドの真が1ピッチ目の2/3程を登った時(09:30)、上で確保していたより子が何か叫んだ。「?」と思い真が顔を挙げると、2人が一緒になって真に向かって「飛んできた」。その時その2人には全く「生気」というものが感じられなかった。叫び声をあげるでもなく、また手足をばたつかせるでもなく、静かに落ちてきた。真は一瞬、無声映画でも見てしるようは非現実感に捕らわれたが、次の瞬間には現実に引き戻され、「わー」と悲鳴をあげていた。私の直ぐ左横4mの氷壁に激突した2人は鈍い音をたててバウンドし、また氷壁に激突してバウンドし、また…。氷壁に激突するたびにヘルメットやらアイゼンやら、いろいろな装備をばらまきなから落ちていった。そして大屏風岩横のデブリで漸く2人折り重なるようにして止まった。それからは全く動きがなかった。「大事じゃ!!」私は取り敢えず直ぐ上の中間支点でセルフビレイをとった。そして我々は元谷小屋の近くで登撃を見物していたパーティーに向かって「助けてー」と大声で叫んだ。しかし何度叫んでも聞えないようだった。我々は登攀を中止し、カタカタ震える足で、血や色々な装備の飛び散った水壁の下降を開始した(10:00)。勿論普段よりも慎重に、幾度も助けを呼びながら。途中アイゼン、スタッフバッグ、手袋、オーバー手袋、千切れた時計のバンド等々色々回収した。我々が50m程降りた頃、漸く下のパーティーが異変に気付いてくれ、デブリに向かって上がってきてくれた。そして我々がデブリに降り着いた時(11:00)には、既にそのパーティーの医師が2人の死亡を確認、互いに巻き付いていたロープを切断、搬送し易いように体を縛ってあった。
暫くして警察官等が到着、現場の確認後、大屏風岩から降りてきた別のパーティーも加わり、その場に居合わせた全員でスノーボートによる搬送にとりかかった(12:00)。取り敢えず元谷小屋付近迄降ろし(13:30)、そこからは、小屋の前に残されたツェルトなどの荷物と一緒に、鳥取県警のヘリコプターによって搬送された。

考察
今振り返ってみると、もしあの朝、天狗沢取り付きに雪面の亀裂が無く右に迂回していなかったら我々も転落に巻き込まれていただろう。もし前の晩予定通り元谷小屋に入れ、翌朝もう少し早く出発していても2ピッチ目は私がトップで左に回り込み、やはり転落に巻き込まれていただろう。更に早く出発していたら転落を起こしたのは我々だったかもしれない…。
事故を目の当たりにし、思い出すと複雑な思いにとらわれる。