ナモ103船団
The Convoy NaMo103

 1944年8月22日、沖縄から九州へ向かっていた疎開船団が米潜水艦の魚雷攻撃を受け、「対馬丸」が撃沈されました。乗船していた学童と一般市民1600名以上の大半が海没し、戦時輸送船史でもまれな大惨事として歴史に残ることになりました。避けられなかった悲劇の実相を知ることは、近代戦争の本質を知る上で貴重な一助となることでしょう。

<疎開船団>

 「ナモ103」は、マリアナ諸島を米軍が占領したことによって近く沖縄が戦場になるかもしれないという危険が高まったため、学童を主体とする一部非戦闘員を内地へ疎開させるために運航された船団だった。ただし、使用された船は民間用の客船などではなく、沖縄の守備につける軍隊を運んできた陸軍の徴用軍隊輸送船を転用したものだった。当時、日米間に民間船を攻撃対象から外すような考えはなく、国際的に安全を保障されていた病院船でも誤って撃沈される例が後を絶たない状況であった。

<参加艦船>

対馬丸
Tsushima maru
1914年英国製の旧式船。敵潜水艦の攻撃側にいたため目標とされ、多数の魚雷を受けて沈没。乗船者合計1788名中1529名が戦死した。
和浦丸
Kazuura maru
1938年完成した船団内の最優秀船。学童ばかり1500名以上を乗船させており、攻撃されていれば史実を上回る大惨事となっただろう。
暁空丸
Gyoku maru
太平洋戦争開戦直後の香港占領時、現地で建造中を接収された。一般人1400名を乗船させており無事上陸させたが、次の航海で撃沈される。
宇治(砲艦)
Gunboat Uji
中国沿岸の警備を目的とした軍艦で、1941年竣工の新鋭艦ながら任務に対してはやや役不足だった。
蓮(駆逐艦)
Destroyer Hasu
1922年竣工の小型駆逐艦。旧式化したため護衛に転用されたものだが、それでも当時としては貴重な戦力だった。

<船団編成と被雷時対勢>


船団進行方向
USS Bowfin(攻撃位置)                   

2対馬丸 ←1000m→ 1和浦丸
500m

3暁空丸
              宇治
 
 3隻の貨物船は進行方向に向かって逆三角形の典型的な編成方法をとっていた。敵潜水艦から最も攻撃を受けやすい斜め前方から、できるだけ同時に複数の船を狙われないようにするための手段である。
 また、2隻の護衛艦は船団の左右後方に位置したが、これは攻撃を受けた際に船団前方から反転するより後方から加速前進するほうが早く敵の位置まで到達できるという理由で、護衛部隊の間で経験則として普及していた。裏を返せば、攻撃前に敵を探知できる自信がなかったことを意味しているが、聴音器やソナーは海水の温度や塩分濃度に影響されやすく、機械の精度や操作員の習熟度ではどうにもできない部分が大きいから、その意味では護衛艦の側にも一理はある。もちろん、あらかじめ攻撃予想位置に護衛艦を配置できる余裕がなかったのも事実である。
 実際の雷撃はほとんど教科書どおりの状況で実施され、敵の側にいた「対馬丸」1隻だけが魚雷を受けて沈められた。それゆえ船団の隊形に関してはある程度の効果があったと見られるが、その後護衛艦はこれといった制圧行動や救難もしないまま船団を誘導して離脱するのが精一杯で、ほとんど何の役にも立たなかったといわれても仕方ない。
 当時米潜は3隻1組のウルフパックを組むことが多く、護衛部隊は第2、第3の損失を恐れた可能性もあるが、もし実際にそうであったとしても同じような行動しか取れなかったであろう。不充分な護衛艦が1、2隻いても実質的な護衛効果がほとんどないことを如実に示した例である。

<何を学び取るか>

 戦争が起こったとき、実際に犠牲となる人の数は軍人より民間人のほうがはるかに多くなるのが普通です。勝つためには最小のロスで最大の戦果を挙げることが前提になりますから、いくら奇麗事を言っても必然的にそうなるものと考えなければなりません。そんな中で命を落としたとき、たまには「名誉の戦死」だとかで無理やりにでも美化できる死もありますが、それはふつう限られた人間の勝敗意識にもとづいた詭弁でしかないし、そのそばには常に何倍も多くの、どうにも美化しようのない無駄死にがあることを認識すべきでしょう。人の命の尊さにしっかりと根ざした平和意識を持ちたいものです。

 



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