海上護衛戦史概観
ここに掲載したのは、管理人が2001年2月に大阪国際平和センター(ピースおおさか)「十五年戦争研究会」で担当した発表に用いたテキストです。表題の内容を簡単にまとめてあります。
太平洋戦争中の海上護衛
T 太平洋戦争中の日本商船隊
1941年当時の日本商船隊は約600万総トンで世界第3位の勢力となっており、戦時中300万総トン以上を建造、拿捕船などを合わせた総保有量は1000万トンに達する。しかし東南アジア全域から太平洋の西半分に及ぶ広がりきった戦場を結ぶ海上交通に対し充分な護衛をつける余力は日本海軍になく、次第に態勢を整えていった米潜水艦隊の猛攻で商船隊の半数が撃沈されてしまう。また軍部が敵制空権下への無理な輸送作戦を繰り返して多くの優秀船を犬死させる場面、跳梁する米空母機動部隊によって主要港で在泊船が一網打尽にされる例も続発。最後は航空機雷で本土に封鎖され、国内のいたるところに触雷沈没した船のマストが林立する惨状を呈した。終戦時の保有船舶量は200万トン以下、運航可能なものはその半分に過ぎなかった。 [上田毅八郎艦船画集]拙稿(準備稿)より
(注:総トン数とは有効容積をあらわす単位で、商船特有のサイズ算定基準)
保有船舶量の推移 [海上護衛戦]付表より編集
年月 | 総保有量 | 陸軍(A) | 海軍(B) | 民需(C) | 期間中損失 |
41/12 | 542.1(57.5) | 215.0(1.3) | 155.7(16.0) | 151.4(33.7) | |
42/12 | 525.2(66.2) | 122.4(1.3) | 140.9(16.0) | 226.1(44.9) | 101.0 |
43/12 | 417.1(86.4) | 101.9(1.3) | 121.2(17.2) | 154.6(62.6) | 179.4 |
44/12 | 197.9(86.9) | 26.1(0.3) | 40.6(6.4) | 89.6(73.6) | 384.1 |
45/8 | 158.7(27.6) | 15.0(0.3) | 25.6(2.5) | 59.4(3.9) | 150.4 |
※単位は万総トン、表示は一般商船(うち油槽船)、損失は合計
損失と内訳 [日本商船隊戦時遭難史]
原因 | 損失量 | 比率% | 主な理由 |
潜水艦 | 476.3 | 56.5 | 護衛不備 |
航空機 | 260.2 | 30.8 | 戦局不利 |
機雷 | 56.8 | 6.7 | 最終封鎖 |
その他 | 8.2 | 1.1 | (水上艦艇、爆発事故など) |
普通海難 | 180.9 | 4.9 | (座礁、衝突など) |
※単位は万総トン
U 日本軍部の認識
日本海軍は日露戦争の戦訓を重視しており、ロシアと同様に国力差のある次期仮想敵国アメリカとの戦いに於いて艦隊決戦で勝機をつかむ速戦即決方針を模索した。そのため軍縮条約の制限に過剰反応を起こし、保守強硬派の実権掌握によって組織全般への極度な作戦偏重主義の蔓延が進むこととなる。貿易立国としての国情から見れば、最初に負うべき責務は自国海上交通の保護であるはずだが、このような背景のもとでは戦略方針からも組織的土壌からも省みられることがなかった。
一方、大陸進出、対露戦を根底に置き続ける陸軍にとって、対米戦は専門外だった。しかも若手参謀の暗躍に組織全体が漫然と流されていた当時の陸軍の戦略はあまりに無頓着な日和見主義に過ぎず、対米戦に踏み切ったのも同盟国ドイツの勝利というあいまいな前提があってのことで、英国屈服までの2〜3年間持ちこたえれば対米講和は可能と判断していたのである。
この両者の思惑をつないだのが、開戦後も船舶保有量の現状維持が可能とした開戦直前の海軍側の見通しであった。およそ理屈に合わない見通しが立てられたのは、海軍側にも開戦に肯定的な動きがあったためと考えられる。
陸海軍の思惑
海軍・・・国力差を考慮した早期講和を期待
長期戦は考えない(影響:海上護衛の認識不足)
陸軍・・・ドイツ勝利による対米講和を期待
国力差を無視した持久戦方針(根拠:海軍の船舶保有量予測)
開戦前の船舶保有量推移予測 [海上護衛戦]
開戦時 | 初年度 | 二年目 | 三年目 | 四年目以降 | |
新造 | 45 | 60 | 80 | 80 | |
損失 | 80〜100 | 60〜80 | 60〜80 | 60〜80 | |
保有量 | 630 | 575〜595 | 555〜595 | 575〜615 | 維持または改善 |
※単位は万総トン
(注:対米開戦最大の引き金となった石油の供給状況についても、ちょうど3年間は枯渇しないよう計算されていた)
V 開戦後の対応
フィリピン〜南方資源地帯占領作戦(第一段作戦)の成功を受けて、運航、造船の各方面でいっそうの統制強化が打ち出され、護衛に関しても一定の動きが見られた。しかし、効果的な護衛を行うための周辺体制は簡単に整備できるものではなく、何より充当可能な戦力自体の不足が決定的であった。米側にも不手際があったため、当初の船舶被害はそれほどでもなかったが、1942年後半からのソロモン・ニューギニア戦線で最前線の損耗が増大、そして1943年後期から米潜水艦隊が実力を発揮するようになり、日本商船の被害も増加の一途をたどる。
創設時の海上護衛隊 [戦史叢書]
第1海上護衛隊(瀬戸内海東部〜マレー半島〜スル海)
特設巡洋艦1、駆逐艦・水雷艇12、特設砲艦5(運送船籍1含む)計18隻
第2海上護衛隊(横須賀〜サイパン〜トラック)
特設巡洋艦2、特設砲艦1 計3隻
初期の船団運航形態 [戦史叢書]
定期発航方式(例: 六連[門司港外]〜馬公[台湾]は2日毎)
加入船数 5隻前後
護衛艦数 通常1隻(船団の1/3程度は無護衛)
前半期の護衛関連諸問題
護衛艦艇の圧倒的隻数不足
充当艦艇の性能不足(専門艦艇の欠如・装備不適)
護衛ノウハウの欠如(教育機関の欠如)
指揮系統の不備(陸海軍間連絡協定の不備、各港湾陸上施設の設置遅延)
航空兵力の欠如(上記諸問題の全て該当)
米潜水艦隊の状況
開戦直後 マニラで貯蔵魚雷の被爆損失(作戦低調化)
緒戦期全般 魚雷の性能不良(43年秋頃改善)
43年秋 狼群戦術の採用(3隻1隊の協同攻撃)
W 後半期の護衛体制
1943年秋にまとめられた絶対国防圏構想を契機として、海軍は組織上連合艦隊と並立する海上護衛総司令部を設立するが、サイパン陥落後の決戦方針で連合艦隊の下部組織とされてしまった。増大する船舶損失に護衛総司令部は新造護衛艦と「大船団主義」の導入で対抗するが、米潜水艦部隊の戦力・技量向上が上回り、しかも戦線の圧迫から主要港湾が米空母機動部隊の攻撃にさらされるようになり、商船隊崩壊には歯止めがかからなかった。連合艦隊と護衛司令部が完全統一されたのは南方航路が途絶した1945年春のことで、壊滅した組織の整理縮小に他ならない。
海上護衛総司令部隷下部隊
第1海上護衛隊
駆逐艦・水雷艇11、海防艦7、哨戒艇2、特設砲艦3 計23隻
(44年秋:駆逐艦・水雷艇6、海防艦40、哨戒艇・掃海艇3、特設砲艦・掃海艇4)
第2海上護衛隊
駆逐艦・水雷艇5、海防艦4、特設砲艦1 計10隻
第3海上護衛隊(44.5〜、東海沿岸)
第4海上護衛隊(44.4〜、南西諸島)
護衛空母4、航空部隊(43.12〜)
後期の船団運航形態
不定期発航方式・特別編成船団(石油積取など)併用
加入船数 最大数十隻単位
護衛艦数 複数(船団加入船の1/2〜1/4程度)
後半期の護衛関連諸問題
敵潜水艦の戦力・技量向上
護衛艦艇の技量低下(急速大量整備に養成・訓練が対応不能)
低性能船の増加(戦時標準船舶)
航空機による被害増加(戦線圧迫)