欠けたものとは 先日、不思議なご縁で広島別院に参りました。稲城和上のお取次ぎでございました。本堂は満堂でした。 河畔のベンチに腰掛けて、お聴聞に疲れた身体を休めて呆然としていました。 アオサギの静かに立っている姿やコサギがこれはやや気ぜわしげに頭を上下にふりながら時に小走りに歩いている様子が見えました。 それぞれに生活にあわせて動作しているのでしょう。 ぼつぼつ、駅の方に・・・秋の日は釣瓶落としというから、腰を上げぶらぶらと、少し腹が減ったなあ水が欲しいなと店のガラスを見ながら転げないように歩いていましたら「竹炭」と書いたもののへりに、ぜんざい、しるこ、と記したものが目にとまりました。 何気なく、入ってみますとスノコで仕切った中のテーブルに女性が3〜4人いました。なんとなく聞こえてくる話題で3・40歳ばかりかなっと思いました。 僕のテーブルには紙ばさみのようなものに無造作にはさまれた次のような紙片がありました。 「陽気ぐらしの感動」というものでした。 動物に芸を教える動物トレーナーは、動物に嬉しい、楽しい、おいしい、という三つを基本にして、いろいろなことを教えていくと言われます。 言って聞かせても全く効果のないものが、この三つの心理を応用すると、非常に覚えが早いというのですから、何か人間にも共通するものがあるのかもしれません。 最近うつ病の人が大変増えています。 嬉しい、楽しい、おいしい、という気持ちが薄れているとすれば、まずそこから治していく必要があります。陽気ぐらしは、この嬉しい、楽しい、おいしいという心の感動を高めるトレーニングから始める事が大切です。つまり、何でも喜べる心になることです。 「自然に笑顔が出るところまでいかねばなりません」。 それもとてもいい笑顔になるまでいくと、やがてまわりの人たちにも笑顔が出てきます。 現在死亡率第一位のガンは、笑うのが一番良いといわれています。 笑いは一人ではできません。心の通う、いい仲間が必要です。いい仲間がいると一層嬉しくなります。一層楽しくなります。そして一層おいしくなります。 いい仲間は、人を立てること、人を助けることによって生まれてくるのではないでしょうか。 と以上のように書かれておりました。 さて、これはどんな機関から発行されているものかと尋ねた所、ある宗教ものものです」と・・・ なかなか面白いですが、人間と動物と同じように見ておられる点、いかがでしょうか。何かが欠けているのではないでしょうか? この欠落しているものに気がつかない所に現代の世相の歪みがあるのではなかろうかと思われませんか? ☆欠けたものとは 「ありがとう」という感謝の心が欠ける、というよりもほとんど無くなってきつつあるのではなかろうか。 その原因は強いものの考え方にある。つまり強いものの思想の奢り、差別的思考の浮上の自然の現れでしょうね。 それは、人類から宗教がなくなってきつつある、あるいは急速に薄れつつある証拠ではないでしょうか。 独り立ちしているものはどこにもいないのです。すべてのものは助け合って存在しているのです。 おはよう、さようなら、ありがとう。と感謝しあって、日暮しましょうや。なんまんだぶ。なんまんだぶ。 又のご縁をお待ちしております。 |
有るのか無いのか 17.11.16 死んだ先が有るのか無いのか。人間死んだらおしまいだ。と、言う人に 対して、そうか、それならあんたはせいぜい1500円ぐらいの物か、何故か といえば、人間死んだら1000円か2000円位の骨壷の中に丁寧に涙なが らに収められてお墓の中に収められるではないですか。 安っぽい安価な者が立派な大層な事を論じて生活していることでござ います。 果たして死んだらおしまいでしょうか。 地獄・極楽が有ると言いますが、見て来た人はないから無いと思いま す。あれは、放逸に流れる人の暮らしの有り様を戒められたのではない でしょうか。 面白い話があるんですよ、明治の初め頃の話ですが、あるお寺のご 法座のとき、表で「地獄・極楽があるものか、見て来た者はおらんじゃな いか」と、大声で叫ぶ者がおったそうです。 其処で、休憩のとき、くだんの男を本堂に呼んでひとしきり話しをさせて、 「おまえさんは飯を食うが」「食うぞ」 「それなら、ウンコをするか」 「飯を食うたらウンコがでる」 「へぇ、そりゃあどこからでるのか」 「お前は知らんのか。肛門から出るのいや」 「そうか、お前は誰も見たことの無い物は無い。と、怒鳴っておったが お前は自分の肛門を見たことが有るか」と、言われてすごすごと逃げて行 った。と、言う笑い話のような話がある。 食事をするから排泄物ができるのです。自分の行為の結果が現れてく るのである。他人が食べたものは私のウンコにはならないのです。 |