日想観(にっそうかん)とは

  心を堅くとどめて乱すことなく、一すじに想いつめて他のことに触れず、こうして夕日がまさに沈もうとして、ちょうど空に鼓をかけたようになるありさまを見る

ことによって、阿弥陀如来の浄土を想念(そうねん)する観法(かんぽう)です。
水想観(すいそうかん)とは、

  水に清く澄みきったありさまを見つめ、(中略)つぎに、その水が氷となったことを想い浮べ、(中略)それが瑠璃(るり)であるという想いを起す

ことによって、一つひとつの生命(いのち)が大地に根づいて輝(かがや)いている世界、すなわち浄土を想念する観法です。
地想観(ちそうかん)とは

  水想観によって観じた、すべての生命を引き受け、照り輝かせる浄土の大地を一層はっきりと見る観法です。釈尊は阿難に、

後の世のあらゆる人人の中で、苦しみをのがれたいと思うもののために、浄土の大地を観ずる方法を説き聞かせるがよい。もしこの観ができるならば、八十億劫(おくこう)という長い間の生死(まよい)の罪が消えて、命終って後には、かならず浄土に生まれるのである

と説かれています。
宝樹観(ほうじゅかん)とは
  「極楽の宝樹を観ずる」ことですが、

宝樹を観ずるというのは、その一一を明らかに観じて、七重(しちじゅう)の並木を想い浮べることである。一一の木の高さは八千由旬(はっせんゆじゅん)であり、それらの宝樹(ほうじゅ)は、みな一様に七宝の花や葉をつけていて、その花や葉の一つ一つが、また異なった宝の色をもっている

ことを観ずることによって、浄土の大地に根づいた生命が、それぞれのもっている素晴らしさをすべて輝(かがや)かせている様子を見、真実の世界を想念する観法です。
宝楼観(ほうろうかん)とは、浄土の一つ一つの地域にある五百億の楼閣(ろうかく)を観ずるのです。

その楼閣の中には無数の諸天がいて、すぐれた音楽をかなでている。また、大空には楽器が懸(か)かっていて、それが、ちょうど天の宝憧(ほうどう)のような、だれも手を触れないのに、おのずから鳴りひびき、それらの音声が、みな一様に念仏・念法・念想の法を説く

ありさまを観ずることによって、私たちの本当の住みか、すなわち、浄土を想念するのです。