気が向いた時、草薙は霧子を呼び出してチェスの相手をさせることがあった。
 最初こそ余裕のなかった霧子だったが、流石はレイリアである、すぐにルールを呑み込んで、それから草薙が勝てた試しは一度としてない。 けれど草薙は懲りることなく、霧子が文弥と契約した後も時々霧子を呼び出した。

 素早く的確にキングを狙う霧子の手並みを眺めながら、草薙は不意に昨日のことを思い出した。どういう反応をするかはある程度察しをつけた上で、言う。

「昨日、君の契約者が私の元を訪ねて来たよ」
 途端、霧子は手にした駒を掌の中で滑らせたのが判った。落とすことはしなかったが、駒は本来置く筈の位置を大きく外し、霧子は形勢不利となる。
「神妙な顔をして何事かと思ったんだがね、私にこう訊ねに来たんだよ。レイリアは契約者を替えることは出来ないのか、と」
 草薙は盤を真剣に見つめながら、この機を活かす手段を考えている。
「なぜ彼がそんなことを訊いたのか、行動原理が判るかい?」
 問いながらも霧子の返事は期待していなかったらしく、草薙の目は盤に向けられたままだ。長い熟考を経て最良の位置に駒を据えた。チェックがかかる。
 だが、いつまで経っても駒が動くことはなく、不審に思い顔を上げた草薙は、そこで予想外のものを見ることになる。
 霧子の頬を一筋、涙が伝っていた。形として溢れたのはそれだけだったが、彼女の内部は感情の濁流が渦を巻いていることは明らかである。
「あのひとは」
 霧子は痛むのか、胸を押さえながら声を絞り出す。嗚咽で掠れた声は、聞く者の感情を揺さぶる程に痛々しかった。
「あの人は、私を、疎んでいるのでしょうか」
 涙が二筋、三筋と流れて行っても、霧子はそれを拭おうとしなかった。自分が泣いていること自体――否、自分が人間の様に泣けるという事実自体、知らないように。

「すまないね。泣かせるつもりはなかったのだが」
 草薙はあやすように優しい口調で霧子に近付き、彼女の頬を濡らす涙を指で取り払う。
「安心したまえ、彼は君を疎んでなどいない。人が誰かを嫌うためには、相手のことを知ることが必要だからだよ。 それは誰かを好ましく思う理由と同様だ。彼は君の多くを知り得てはいないだろう」
 草薙は聖や恠を思った。契約者と共に外界に触れ合い、様々なことを吸収し、それらは確実に彼女たちの中に根付いて成長してゆく。
 だが霧子は違う。日がな狭い世界にこもり、接する人間も極僅か。それでどうして人間の感情など理解出来ようか。

「もし本当に彼が君を疎んでいるのなら、彼は君の傍から離れるなり、何なり、どうとでも出来るのだよ」
 しかし、何を言っても霧子の表情が和らぐことはないことも草薙は判っていた。霧子にとって意味があるのは契約者の言葉だけ。 そのように造ったのは他ならぬ自分なのだから仕方がない。
 だから草薙は続ける。契約者でない自分がどう言えば最も霧子に効果的か、それは彼が一番知っている。
「本を読みなさい、霧子」
 唐突な一言に、霧子は目を丸くして草薙を見上げた。
「君はレイリアなのだから、まだ人間を理解出来ていない部分も多いだろう。それを補うのに、本はとても役に立つ。 ……とはいえ、この部屋にある本はまた趣向が違うがね。図書館でも、書店でも、本は何処でも手に入る。どんな本でも良い、 読んでそこから得たものは必ず君のものになる」
「……理解していくことが、出来るのですか。人間ではない私にも。そうすれば、あの人は、」
 あの人は、笑ってくれるだろうか。
 あの人は、私に笑いかけてくれるだろうか。
 私の存在を必要だと。傍にいて良いと、いてほしいと言ってくれるだろうか? 

 ――していると、言ってくれる?

 続きは言葉として表に出ることはないが、此方を真摯に見つめる霧子の双眸から強い意志を掴むことは容易かった。

「それは君次第だよ。だが、現状を良しとしないのならば、変化をもたらす事が必要だ。その変化は、多かれ少なかれ現状を打開するだろう」
「――はい」

 霧子は頷くと立ち上がり、部屋を退出した。欲しい物を手に入れるために。
 途中やめになってしまったチェス盤を見つめ、草薙は少し考えてから自駒を動かした。


「チェックメイト」







2006.10.10

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