文弥が名前を呼んだ後、笑い方を知らないようなぎこちなさで、それでも笑顔を見せた霧子は、一緒に行くかと再度問うと、少し思案してから首を振った。
「私は、食事を摂らなくても生きて行けますから」
 笑顔は幻だったのかと錯覚した。もう霧子は普段の無表情に戻っていたから。
「……そう」
 特に食い下がることもなく、文弥はあっさり頷いて家を出て行った。断ってくれて安心した。霧子といる事で緊張して息が詰まって仕様がなかったのだから、ひとりになれる 機会を得た事は嬉しかった。
 でも、それでも少し不満だったのは何故だろうか。
 食事なしで生きて行けても、契約者なしでは生きて行けない。だから傍にいる。それがレイリアなのだと言っていたのに。


 文弥がマンションを出てすぐ、まるで待ち伏せていたかのように、男が此方へ歩いてきた。
「――あ」
 さほど驚かなかったのは、どこかで予想出来ていたからかもしれない。よく見知った顔。文弥がつい先日までいた遊郭の主人だった。

 草薙を通じて、主人には文弥が店を出る事が伝わっている筈だった。その彼がわざわざやって来た理由など、察しがつく。手放すとなると、急に惜しくなったのだろう。
「ぼくを連れ戻しに来たんですか?」
「連れ戻す、とは穏やかじゃないな。帰るんだよ、文弥。よく考えてみろ。お前を拾ったのは誰だ? 病気持ちのお前を置いてやったのは誰か判るか?」
「……判っていますよ、貴方です」
 貴方がぼくを飼い殺すつもりだった事も。続きは眼差しだけで答える。それでも、この男がいなければ間違いなく文弥は死んでいた。それ程の恩はある。
「なら」
 やけに粘着めいた声音で、男は文弥の耳元に唇を寄せる。
「帰って来い、文弥。新しい男に幾ら積まれたか知らんが、お前にこんな街の空気が合う筈はない」
 文弥の心は揺れない。変わらない穏やかな眼をして、じっと男を見上げている。迷いは一切ない。そも、文弥は迷うほど何かに執着を持った事などないのだ。 持った所で無意味だと、身を以て痛感しているから。だからこの男に未練がある訳でも、今の生活を守りたい訳でもない。
「来い」
 男に手を掴まれて尚、文弥は抵抗しなかった。 ただ少し、霧子の事を考えた。連れ戻されたとして、あの人はどうするのだろう。流されるまましか生きようとしないこのぼくを、蔑む気になるだろうか。

「手を放して下さい」

 鈴のような透る声が突如として降って来る。そんなばかな。信じられないのも無理はなかった。だが家にいる筈の霧子は今文弥の目の前にいて、そして男の腕を掴んでいる。 文弥も男も暫く茫然と霧子を見つめていた。
「何だ、あんたは」
「手を、放して下さい」
「そう言うあんたが放せばいいだろうが」
 そこまで来ると男もだんだん冷静になったようで、邪魔をされた苛立ちもあらわに霧子をねめつける。そして男は空いた一方の手で、霧子の手を引き剥がそうとし――。
「い、いっ痛え!」
 次の瞬間、立場が逆転していた。引き剥がそうとした男ではなく、霧子の方が相手の腕を捻り上げていたのだから。ありえない腕力に、文弥は目を見張る。 しかし、次いで起きたことは更に常軌を逸していた。霧子が痛みに呻く男を一瞥した直後、白いショールが空を舞う。同時に鈍い音。 ショールが地面に落ちた時には、男の体は勢い良くコンクリの壁に激突していた。凄まじい衝撃に、地面が揺れる。 男は頭を打ったらしく、動く様子がない。何が起きたのか文弥は視認さえ出来なかった。蹴ったのか殴ったのかも判らない。 だが間違いなく、霧子は瞬く間に大の男を気絶させたのだ。
 霧子はショールを拾い上げると、そこで初めて文弥の方に振り向いた。その白い頬に一筋、赤いものが走っている。気付いて、文弥は息を呑んだ。
「どうして……」
 問わずにはいられなかった。男にやられたのではなく、今の行為で何処かを掠めて出来たものだろう。つまり文弥の為に彼女は傷付いたのだ。
「……貴方に危険が及んでいました」
「だからって、怪我までして……」
「私はレイリアです。私が怪我をしても貴方は死にませんが、貴方に何かあれば私は消えるのですから」
「――……レイリアは」
 レイリアは、なんて可哀相な生きものなんだろう。
 こんな綺麗なひとが、こんな汚れた自分に命を握られているなんて。 綺麗なひとがこんな自分の為に、傷ついて行くなんて。なんて、理不尽。

 可哀相だと口に出して言う代わりに、文弥はもっと残酷なことを問うてみた。
「……君は、そんなに消えたくないの?」
 四六時中、こんな人間が傍にいないと生きていけないそんな命に、未練はあるのかと。
「――貴方は、生きたくないのですか?」
 真っ直ぐ射抜くように見つめられて、文弥はその真摯さにもう何も言えなくなった。
 生きたいと言ったのは貴方なのに、と。自分が草薙に告げた言葉を暗に責められたような気がした。文弥は逃げるように踵を返して、霧子から離れて行く。

 だから文弥には届かない。
「生きたいと言った貴方の傍で、私は生きたい。だから消えたくないのです」
 確固たる意志を持った強さで霧子がそう、呟いた声も。






恠や聖、藍は身体能力が高い描写が出て来て嬉しかったけど、霧子さんは結局出てこず終いだったので絶対書きたかった第2弾。
2006.5.1

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