「ただいま」
 ドアを開け、文弥は薄暗いリビングへ足を踏み入れる。時刻は既に次の日。ただでさえ桃子の家で遅くまで世話になった上に、清に会った後、 文弥は暫く街をぶらついたのだ。将路たちももう自室で休んでいるだろう。
 けれど文弥は気付いている。どんなに遅くなろうとも、唯一人だけは必ず文弥の帰りを待っていること。ソファの傍、ランプの火が揺れている。
「……霧子?」
 名前を呼んだ。だが、いつまで経っても一向に反応はない。訝り、ソファの方へと近づいた文弥は、すぐに返事がない理由を見つけてしまった。
「う、わ。めずらしい」
 思わず呟いたのも無理はない。ソファに横たわり、霧子は寝息も微かに眠っていたのだ。本当に、珍しいことだった。 霧子は普段、決して文弥より先に寝ないし、後に起きない。聖に会うまでは、レイリアは眠らないものだと思っていたくらいだ。
 契約者が傍にいなかったせいだろうか?
 レイリアは契約者が傍にいないと衰弱してしまうが、短時間なら問題ないとされている。文弥が家を空けたのは一日にも満たない。 だがそれでも霧子の体には良くなかったのだろう。
 可哀相。
 霧子の事を考えると、哀れみが真っ先に浮かんでしまう。
 こんなぼくと契約させられて。ぼくがいないと生きて行けないなんて、可哀相。
 きっとレイリアが契約者なくとも生きて行けるなら、霧子はすぐにでも文弥の傍からいなくなれるだろうに。

 軽く開かれた霧子の手のひらに、何の気なしに指を落としてみた。するとそのままぎゅっと握りこまれてしまう。 びっくりして放そうと試みたが、意外にも霧子の力は強かった。 結局、考え直して、文弥はそのまま床に座り込むことにした。初めて見る霧子の寝顔をじっくり眺める口実が出来たと思えばいい。
 霧子はいつも無表情だが、文弥を見る時の彼女は何処かに冷たさを滲ませる。だから文弥は真正面から霧子を見つめるのが苦手だった。 不意に合った目を、笑むことで誤魔化し、すぐに逸らす。これまで何度あったことだろう。
 でも今ならば大丈夫。眠る霧子が纏う空気は柔らかく、冷たい指も文弥の体温を得て熱を持ち、それは文弥に安堵をもたらしてくれる。

 しかし、穏やかな時間はすぐに終わった。霧子が瞼を震わせて、ゆっくり目を開いたのだから。突然のことに身動きとれない文弥。 けれど、文弥の予想を裏切って、霧子はにこりと笑んだのだ。
「お帰りなさい、文弥」
 そして続いた言葉も、同様に優しさに満ちていた。けれど、文弥は動けない。霧子が再び目を閉じてようやく、文弥は弾くように繋がったままの手を放し、 立ち上がることが出来た。
 その優しさは、決して自分に向けられてはいけないものなのに。なのに向けられた矛盾に、文弥は呆然と立ち尽くした。


 違う、霧子は寝呆けていただけ。契約者というエーテルが帰って来たから、それが嬉しかっただけ。
 思い込まなくては生きていけない。築いた二人の距離が崩れてしまったら、どうしたらいいか判らない。一人で生きると決めたのだ。 傍に誰がいたって、いずれ離れていく。例えば母のように。だから心の在り様だけは、ずっと一人でなくてはならない。
 だから霧子はぼくのことが嫌いで、一緒にいるのは契約があるからに過ぎなくて。

 自惚れてはいけない。霧子がぼくを   だとか、考えてはいけない。
「霧子だって、それは判ってるじゃないか……」
 詰る声も、眠る霧子には到底届かない。ただ、穏やかな霧子の寝顔から、やはりいつまでも目が離せなかった。





第5話・「霧子の気持ち」「文弥と清」の後。
霧子が将路に「文弥が好きか?」とわざわざ聞いてきて、文弥が桃子の家に行って帰宅が遅くなった夜の捏造。
絶対、霧子さん寝ないでリビングで待ってんだよ! 
2006.4.17

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