息が詰まる、とは成程このような状態を指すのだろう。文弥は今、痛い程その苦しさを実感している。
文弥は遊郭を出て、草薙に与えられたこの一室に暮らしていた。だからまだこの広い部屋に慣れないのは当然なのだが、息が詰まる原因はそれではない。
文弥は膝に開いた本から、ちらと目線を上げた。
「――」
目が、合ってしまった。居たたまれなくなり、視線を泳がす文弥を、霧子はひたと見つめてくる。
「な、何でもないよ」
慌てて膝上に視線を引き戻す。暫く霧子の目は文弥に注がれていたが、やがて逸らしたようだ。内心ほっとする。
それから、今度は霧子に気付かれないようにそろそろと再度顔を上げた。霧子は文弥から少し離れた位置にあるソファに座り、窓の外を眺めている。
霧子はいつも無表情だった。
店に草薙がやって来た翌日、文弥はクサナギビルを訪れた。そこで、草薙から自分を助けた理由や、レイリアのことについて一通りの話を聞いたのだが。
「これから、君はどうしたいかね」
草薙に問われ、文弥は戸惑った。
「どうしたいと、いうのは……」
「君には選ぶ権利がある。またあの街に戻ることも、私の下にいることも、どちらでも出来るのだよ、ああ但し」
そこで草薙は言葉を切り、自分の後ろに控えている女に視線を投げた。
「どちらにせよ、彼女は君と一緒に行く事になるがね」
女は感情のない顔でただそこに立っていて、人間らしい様子はまるでない。文弥が例え男娼を続けると言ったとしても、眉ひとつ動かさず着いて来る気がした。だが。
「……貴方の下に、というのは、ぼくの面倒を見て頂けるという事ですか」
文弥が出した結論に、やはり女は何の反応も示さなかった。
「ああ。衣食住、何の不自由もさせないことを約束しよう。時々は私の部下として役に立ってもらうかもしれないが、構わないかね?」
「――ありがとう、ございます」
「では、すぐに部屋を手配させよう」
草薙がそう言うと同時、女が初めて動きを見せた。草薙から離れ、文弥の後ろへと移動したのだ。再び、困惑が文弥を襲う。
「……あの、」
「最初は戸惑うだろうが、一緒に暮らしていればすぐ慣れるだろう。レイリアとは、そのように出来ているのだから」
「一緒に、ですか」
困惑が更に膨れ上がる。永らく一人で生きてきた文弥にとって、誰かと共に暮らすなど考えられないことだった。
彼女くらいの年齢の女性と暮らしていたのは、幼い頃に一度だけ。だから彼女を見ていると、嫌でもそれを思い出す。
「ふむ、周りの目が気になるかね。確かに、君と彼女が二人で暮らすのは少し不自然かもしれないが」
草薙の言う通りであった。女は、母親にしては若すぎる。
「君の姉という事にしてはどうかね。それならば、さほど不自然には映るまい?」
草薙の提案に、文弥が小さく頷いたのを見て取って、草薙は次いで女に声を掛けた。
「それでいいかね、霧子」
「……はい」
初めて聞いた女の声は、やはり抑揚なく無感情だ。ただ、さらと揺れる綺麗な黒髪は、おぼろげな記憶の中、確かに覚えがあった。
こうして霧子は文弥の姉となって一緒に暮らし始めたのだけれど、文弥は未だに霧子の存在に慣れないまま、ぎこちない共同生活を送っていた。
霧子はまさに人形のようであった。自発的に何を言うことも動くこともなく、ただそこに在るだけの。
「ちょっと、外に出てくる、ね」
暫しの逡巡の後、声を掛けると、霧子は文弥の方へ首を巡らせた。再度合った目にまた戸惑いを覚えて、それを隠すために文弥は饒舌になる。
「あの、ちょっと、お腹がすいたから。外に食べに行こうと、思って」
「……そうですか」
「うん、そう……。えっと、行く?」
言葉が足りなかったらしい。霧子が僅か首を傾げる。だが文弥も内心困っていた。果たして、自分は彼女をどう呼べばいいのだ。
「えっと、だから、ね、姉さんも、行くかな……って」
だが、懸命に考えた回答は、意外なことに霧子に否定されることになる。
「私は貴方の姉ではありません。私の名前は――」
霧子の言葉はそこで中途半端に途切れて、沈黙が落ちてしまった。どれだけ待っても続きはない。文弥が何かを言わなければならないようだった。
何か、それは彼女の名前。文弥はそれを知っている。
「えと……じゃあ、あの、霧子は、行く?」
その問いを発した後に起きた事を、何と表現すれば良いのだろう。
これまで一度も動かなかった霧子の表情が、文弥の一言で初めて変化を見せたこと、それは大きな驚きと、小さな動揺を文弥に与えた。
――笑えたんだ。
そしてようやく、文弥は霧子が無感情な人形ではないことを知ることが出来たのだ。
2006.4.10