貧民街の中でも一際淀んだ空気のこの場所に、不似合いな二人組が歩いていた。初老の男と、それに従うように色白の細身の女。 二人は小さな遊郭にたどり着くまで、一切の言葉を交わさなかった。
「さて、霧子」
 店の前で足を止めた草薙はそこで初めて言葉を放る。
「これから君は君の契約者と会う訳だが、どうだね、今の気分は」 
「――」
 霧子は答えない。表情は動くことを知らず、静かな湖の底を思わせる冷たさに彩られている。
「これから会うのは、君を生かし、君を殺すこの世で唯一人の人間だ。君の体の中を巡るエーテルが騒ぎはしないかね?」
「……」
 無言を肯定と取ったのか、草薙は笑みを深くした。
「それが嬉しい、と思うことだよ」
「――判りません」
 霧子は本当に何の事だか判らなかった。確かに体内のエーテルは揺れ動き、いつもとは違う感覚を与えてくるが、それだけだ。 何の感慨もわかない。
「何、すぐに判るようになる」
 草薙はそう言い、低い扉をくぐって奥へ入って行った。



 店の主人の案内通りに、薄暗い板張りの廊下を突き進んでいく。一歩一歩進む度、霧子の胸の奥がざわめくように痛み始めた。 店の中に入ってから、体内に流れるエーテルが激しさを増している。 霧子の顔が、生まれて初めて戸惑いに歪んだ。それは不安であり恐怖であり、期待であり――味わった事の無い感情の渦であった。
「失礼する」
 草薙は最奥に位置した部屋の前で立ち止まると、襖を引いた。
 後に続いて入った部屋の中、布団の上に横たわっていたのは――。

 体内のエーテルが極限にまで高まる。霧子はようやく、自分の中で溢れる感情が確かに「嬉しい」というものであることを理解した。
 会いたかった。
 それは、失せ物を見つけたような、在るべき物を取り戻したような、喪失感を埋める満たされた感覚だった。

 細い身体をした少年は、霧子の存在に気付かない。見えていないのだ。眼前で話し掛ける草薙の顔さえも正確に認識出来てはいないようなのだから。 それでも霧子は一言も口を挟むことなく、後ろに控えて二人の会話を聞いていた。耳に透る彼の声は、決して聞き漏らさないようにと。

 病魔が巣食った体は、少しの会話にも耐え切れなかったらしい。程なくして少年は気を失ってしまう。
「さあ、契約を」
 草薙に促され、霧子はゆっくりと少年の方へ歩み寄った。綺麗な顔をした少年は、レイリアである霧子よりも白い顔をして横たわっている。 傍らに膝をつき、前髪を優しく掻き分ける。手の甲を頬に滑らせると、冷たい感触が伝わってきた。誰に教わった訳でもない、相手を慈しむ動作。
 そして霧子は少年の腹部に手を当てると、顔を近づけて、撫ぜるような口付けを落とした。途端、霧子の体内で少年の持つエーテルが溶けるように混ざり合った。 そこから現れたのは色鮮やかな光。
 光に包まれ、二人は人ではない姿に変貌してゆき――しかし、恍惚とした時間は無粋な乱入者によって妨げられる。
「霧子、そこまでだ。此処でアーミット化するのはまずい」
「……」
 霧子は自分の肩に置かれた草薙の手を、睥睨するように見下ろした。それでも、邪魔をされた怒りはすぐに沈静化し、霧子は言われた通りに手を離す。 光が徐々に収束していく様を、霧子は何処か物悲しい気持ちで眺めていた。
「契約はうまく行ったようだな」
「――はい」
「では用は済んだ。帰るとしよう」
 あっさりと踵を返す草薙。しかし霧子は初めてそれに従わなかった。
「……帰るのですか」
「ああ。私はともかく、女性である君が長居するのは宜しくないだろう」
「そうですか」
 未だ立ち上がらない霧子を見、草薙は満足そうに唇を歪ませた。
「そう残念そうな顔をするのは止めなさい。何、店の者に伝言を言付けよう。目が覚めたら私の元へ来るようにと、彼に伝えてもらえばいい」
 優しく諭されて尚、霧子は少年から視線を引き剥がせない。
「心配せずとも、すぐ会える」
「本当、ですか」
「本当だとも。君はもう、彼がいなくては生きていけない体になったのだからね」
 そこでようやく霧子は少年に背を向けて、部屋を後にすることが出来た。閉まりゆく襖の間から、目に焼き付くようにと少年をもう一度見つめる。

 早く、会いたい。




「嬉しかったろう、契約者に出会えて」
 帰路。前を歩く草薙が、霧子の方を振り向いた。
「嬉しそうな顔をしているよ、霧子」
「……」
 芽生えた感情など、目の前にいる男の思惑通りなのかもしれない。レイリアはすべからく、契約者にこんな思いを抱くように作られているのかもしれない。 けれどそれでも、この焦がれるような熱情は、作り物などではない。確かに霧子の胸に宿ったのだから。





2006.4.5

BACK