最初に知覚したのは、髪を梳く優しい感触だった。心地良い感覚に身を委ねながら、何の感触だろう? まどろむ意識の中で思う。 無意識に開いてゆく目は見慣れた窓を映し、文弥はいつもの朝が来たことを自覚する。だが、いつもと違うのは自分の髪に触れる柔らかな手があること。

 ……霧子……?

 間違いない。おそらく彼女はベッドの端に腰掛けて、後ろから眠る文弥の髪を梳いている。
 なんで?
 文弥は混乱した。今まで長く一緒にいるけれど、彼女は必要がない限り、自分から文弥に近付くことは決してない。 一緒に歩く時でさえ並ぶことはせずに、距離を置いて後ろを歩く。なのにどうして。
 どうして霧子の手は、こんなにも温かいのだろう。いつもはあんなに冷えた目をしているくせに。

 起き上がり、霧子を問い詰めたい衝動に駆られた。けれど、その時自分はどんな顔をすればいいのかと いうことに思い至り、思い至ると恐くなって行動に移せそうもなかった。
 もはや文弥に出来ることは、寝た振りをしながら祈ることだけだ。早く霧子が離れて行ってくれますように。 そうしたらぼくは起き上がって、いつもの朝が迎えられるのだから。

 或いは、霧子は文弥の葛藤に気付いていたのかもしれない。
 霧子は不意に手を引いた。そのまま離れて行くことを期待したが、違った。背後から更に近付く霧子の気配。思わず息を殺してしまった文弥の額、 手のひらよりも更に温かな感触が躊躇いがちにそっと触れた。

 ……え?
 今の――今の、何?
 数秒間、何が起きたのか判らず目を閉じたまま静止し――正体を判断した瞬間、慌てて文弥は飛び起きた。だが、その時にはもう霧子は文弥のベッドからは とっくに離れ、ドアの近くまで歩いていた。文弥が起きたことに気付き、振り返る霧子。その金色をした双眸は、常と変わらず冷えた光を宿している。
「おはようございます」
 そして霧子から発せられる声もいつもと変わらなくて、まるで先程のことなどなかったよう。 けれど額に残る温かな感覚は間違いようがなくて、文弥は暫く茫然と霧子の顔を見つめ続けた。
 返事がないことを訝ったのだろう、霧子が少し首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「……何でも、ないよ」
 投げるようにそう答え、文弥は霧子の脇をすり抜けて先にドアから出て行った。霧子の傍を通った時、彼女は当たり前のように身を引いて距離をとって、そのことが 更に文弥を悲しく、苛立たしい気持ちにさせた。

 君はどうしたいの。ぼくに何を求めてるの。

 文弥は霧子が何を考えているのか全く判らない。判ろうとする努力も出来ないからこうしてまた、何事もなかったような態度を取る。 そうすることで二人はいつもの距離を取り戻すのだ。





2006.3.30

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