昭和58年6月は過ぎ、秋を跨いで冬となり、春が訪れる。同時に魅音が卒業を迎え、梨花と沙都子の背中からがランドセルが消える。
 新しい制服が無事に届いたのは春休みの終わり頃だった。
 鏡の前でひとしきりファッションショーをして外にお披露目に出掛け、それでもまだ興奮冷めやらず、沙都子は夕方の買い物にも制服のまま飛び出した。

「あれ、沙都子ちゃんじゃないですか」
「あら、監督」
 馴染んだ声に振り返ると、やはり。入江がいた。どうやら回診の帰りらしい。
「もしかして新しい制服ですか?」
「ええ。魅音さんが用意してくれたんですのよ。前のは大分小さくなっていましたし、ちょうど良かったですわ」
「ああ……そうか、沙都子ちゃんも梨花ちゃんももう中学生ですね。早いものです」
 感慨深げに頷く入江を見上げながら、沙都子ははた、と気付いた。監督・中学生、このキーワードが結び付いて浮かんだ疑問。
「監督は確か以前、中学生以上に興味がないって公言なさってましたわよね?」
「ぶふっ……あれ、そ、うでしたっけ?」
「今さら隠せるとお思いですの? 圭一さんから色々聞いてますわよ」
 そもそもあれだけメイド好きを主張し回っておいて、何をどうごまかそうと言うのか。流石に子どもに真正面から指摘されるのは恥ずかしいのか? よく判らない。
「なら私も監督の興味の範囲外という事ですわね。残念ですわ」
 口先は残念がりながら、言外には助かったという意味を皮肉のように織り交ぜて。どんな反応が返って来るか少しだけ期待しながら、沙都子は笑う。

 どんな反応ならば良かったのか?
 その後、沙都子は自問したが答えは終ぞ出なかった。

「沙都子ちゃんは判っていませんねえ」
 頭上に降る呆れたような声は、さっきまでの狼狽ぶりが嘘の様。顔を上げると、入江は不似合いに真面目な顔をこさえて此方を見下ろしていた。
「ロリコンがあってメイドがある訳ではないように、メイドがあって沙都子ちゃんがある訳ではありません! 判りますか?」
「判るも何も、答えになっていませんわよ?」
「いえ、答えですよ。つまりですね、」
 入江が眼鏡を押し上げる。続く言葉が、一番言いたいことなのだろう。
「中学生でも沙都子ちゃんは沙都子ちゃんということです。勿論、メイド化計画も求婚の予定も変更はありません」
「……」
 得意気に語る入江をよそに、沙都子は一切の返事も出来ずに立ち尽くしていた。見上げた視線さえそらせずに、ただじっと入江の目を見詰めたまま。
 入江が訝るのに時間はかからない。本人も沙都子に引かれて当然の内容だったと徐々に自覚していって、見る間に焦燥の様相を示しだす。
「沙、沙都子ちゃん、ちょ、間違えました。えーとですね、」
 入江の言い訳は、しかし一言。
「もう、いいですわ」
 ぴしゃりとした沙都子の制止によって途切れてしまう。
「私、買い物の途中でしたの。これで失礼させて頂きますわ。ごきげんよう」
 ぺこっと頭を下げて、沙都子は走り去って行く。先ほど、長いこと入江を見詰めていた反動のように、以降は一度も目を合わせないままだった。
ああ……完全に引かれた、と項垂れる入江は気付かない。沙都子が駆けて行った方角は、商店街とは反対方向だ。


 走り去った先は林の入り口で、沙都子は幹に手を突いて乱れた息を整えた。高鳴る心臓は走るのを止めても中々おさまらず、自分が受けた衝撃の大きさを思い知る。

 求婚。それは結婚だ。
 沙都子にとって結婚は夢見る幸せなゴールではない。言い争いと暴力を経て、最後は離婚で締め括られる悲惨な現象でしかないのだ。
 あんなもの、自分が当事者になる気がしない。なりたくもない。

 でも。その現象と入江は、どうしても結び付かない。
 だって沙都子は知っている。入江は、ずっと優しい。あの人たちのように、だんだん恐くなっていく事もなく、ずっと変わらず優しい人。 きっと長い間、自分のために、きっと優しい嘘をついている。
 毎日の注射の理由が嘘であることは、何となくだが察せられた。 少しずつ少しずつ、自分で精一杯だった沙都子も周りを見渡す余裕が出てきたから。だから、入江に向けられるものが純粋な好意だけではないことも感づいた。
 思えば判り易かったのだ。入江は沙都子と話すとき、いつも形にならない謝罪の様に、端々で目を伏せる。

 ダメだ。落ち着け沙都子。
 あんなの冗談めかしていつも言っているではないか。何で今更真に受けてるんだ、自分は!

 そうだ。入江は「中学生でも関係ない」と言ったが、高校生については何も言っていない。中学生はギリギリセーフで、高校生はアウトかもしれないではないか。 だから、自分が今こんなに悩む必要はない気がする。
「……それもどうかと思いますけれど……」
 苦笑して一人ごちながらも、沙都子の気持ちはだんだんと落ち着いてゆく。よし、と頷いて、買い物の為に元来た道を引き返していった。

 けれど沙都子は忘れている。 高校生とはすなわち16歳、結婚出来る年齢になった時にその質問をぶつけたら。そしてもし、入江の答えが変わらないなら。
「求婚の予定」は正式に「求婚」となる。沙都子はもう逃げられないのだ。






2007.11.30(2008.1.5修正)

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