赦されていない。








願うことも 祈ることも 想うことですら、







 私には、それさえも。









 1995年。
 礼拝堂は一夜にして血の海と化した。血色は元々敷かれた赤い絨毯に染み込んで一体化したように見えなくもないが、 なぎ倒された椅子や血塗れ破れた聖書の数々、何より辺り一帯に篭る死臭は誤魔化し様がない。 清掃が済むまでの間、テレジアに出入りしないようきつく言い含めなければならなかった。

 形の残らなかったベアトリスの遺体は、僅かな遺品に代替して教会の管理する墓地へ静かに葬った。 碑銘すらない墓ではあるが、いずれ櫻井の少女が訪れる事が出来るようにと。
 任せると言われたカインは教会の最深部に封印した。来るべき日まで開錠する事はないだろう。
 それらを滞りなく済ませ、神父の不在を訝るテレジアに嘘をつき通した後、リザはようやく自室で落ち着く事を許された。

 一度に多くの事が起こり過ぎて時間の感覚がない。窓から見える空は暗いが、果たして一件から何日後の夜なのだろう、今日は? 
 普段ならとっくに就寝している時間だったが、眠れる訳もなかった。ベッドの端に座り、虚空を見詰め続ける。無為なその行為に疑問を抱かない程、リザは 肉体的にも精神的にも参っていた。

 コンコンコン

 不意に鳴ったノックに我に返る。トリファがいない今、リザの同居人はひとりしかいない。また恐い夢を見たのだろうか?
「開いてるわよ、どうぞ」
と、扉の向こうへ言う。だが、開いた扉の先に居たのはテレジアではなく、予想外の人物であった。
「……まだ居たの? もう出立したのかと思ってたわ」
 そこにいたのはトリファだった。相手を確認した途端、リザの声のトーンが数段階落ちたが、彼は気にする風もない。一見すると気弱そうな笑みを 浮かべながら、口を開く。
「申し訳ありません。道中、忘れ物を思い出しましてね。取りに戻ったのですよ」
「忘れ物?」
 リザは首を傾げた。もう別れの挨拶は済んでいるのだから、忘れ物などリザにわざわざ断らずとも勝手に取って行けばいいものを。
 リザの疑問が伝わったのだろう、トリファは言葉を重ねる。
「いえ、貴女への用事ですよ。試してみたい事があったのですが、いずれと思う内に忘れていましてね。 次に貴女に会うのは少しばかり先になりそうですから、今遂げておかないと、そう思いまして。でなければ忘れたままになりそうですから」
「何のことかしら」
 何でも良いが疲れているのでさっさと去って欲しい、と言う意思を言外に含ませる。立ち上がり、トリファと距離を取るように窓辺へ 歩みかけ――その瞬間。

「そう仰るという事は貴女も忘れておいでですね」
「え、――!」
 驚く間もなかった。数メートルはあった筈のトリファとの距離が一瞬でゼロとなり、強い力で腕を前へ引っ張られる。 前のめりに倒れ込むリザを受け止めたトリファは、長い指で掬い上げるようにリザの顎を掴んだ。優雅とさえ思える動作にリザが目を見張るより早く、 唇は奪われた。いとも容易く。
 長きに渡る付き合いの中で一度たりとも触れ合う事はなかった。その暗黙の了解が破られたのに、何とあっさりしたことか。
 甘やかな、懐かしい、それでいて鮮やかな感触。

 長い口付けから解放されたリザは、何と言っていいやら判らない。やや上気した頬を悟られぬよう、俯いて問う。口調だけは強気に。
「何の真似?」
「ですから試してみようと言うだけの話です」
 何のことだ。リザは眉をひそめた。
「思い出せませんか、いつだったか、貴女が私に仰ったではありませんか。「私と貴方が交わった所でヒトが生まれる訳がない」と。 確かに貴女の仰る通り、今更我々が人間の真似事などしても無意味でしょう。
 ですが本当にそうなのか? 少し興味がわきました。貴女が産み出すのが汚物か、ヒトの子か。そしてもし後者なら、不憫な貴女にとっての救いになり得ないでしょうか」
「ふざけないで……! 貴方の好奇心に付き合う謂れはないわ。放しなさい!」
 リザにとって、これ程の侮辱はなかった。 怒りに任せ、渾身の力でトリファの手を振り解こうとする。だが、手首を掴む力も腰に回った腕も一向に動く気配はなく、リザは身を捩ることしか出来ない。 実力も聖遺物も蓄えた魂の軽重も関係ない。純粋な腕力がトリファに敵わないだけ。リザはそれを初めて知った。
 無駄な抵抗が愉快なのだろう。トリファは笑みを一層深くして歌うように続けた。
「もしヒトの子を生み出せるのなら、幾千の子どもを殺戮した貴女が今も変わらず子を成せるなら、こうは思えませんか。 ――リザ、貴女の罪は既に赦されている」
 告げられた瞬間、リザの頭の中は全くの無となった。
 そんな訳はない。幾らそうすることが時代の正義だったとして、あれ程の大罪が赦される訳がない。判っている、判っている筈なのに。 「赦される」その言葉が救いに聞こえたのは紛れもない事実であり、リザの心の隙だった。 好機とばかりにトリファはリザの体を押し倒し、今度こそ一切の抵抗を封じにかかる。

「何が……目的なの……」
 もはやリザは無抵抗だった。触れられるに任せながらも、疑問だけは尽きない。
「貴方に何の益があると言うの。何の為にこんなことを……?」
「貴女のような方でも、理由が必要ですか? ……ではこうしましょうリザ。貴女が欲しがる理由、それは、」
 勿体ぶるように言葉を区切り、トリファは僅かに視線を上向ける。それを恐々と見上げるリザの双眸、 次の瞬間降り注いだのは、底冷えのする青い眼光。それと共に落ちて来る”理由”。

「私が貴女を愛しているからですよ」

 リザの目の前が真っ暗になった。目を開けているのに、視界は闇が被さり、埋め尽くされる。 そしてリザの絶望を目の当たりにして尚、トリファはそれが望みだったというように更に言葉を連ねるのだ。

「心までは手に入らない。だからせめて一夜だけでも私の手の内におさめておきたい。そう思っているのです」

 そう、怨嗟の言葉を。
 断じて愛の言葉などではなく、愛と嘯いた明確な悪意。

 僧衣の中を冷えた手のひらがまさぐる。とっくに穢れたリザの体を、形だけは労るように撫で上げる。 声だけは出すものかと、それは最後の抵抗だったのに、探られれば本能が疼き、押し殺せずに徐々に快楽の音色が紡がれた。
 それもトリファには痛快らしい。情事には不釣合いな嘲笑で、声に出して笑っている。 聖母を気取っていようとも、結局はマグダラのマリア。メルクリウスの名付けた通りの淫婦だとせせら笑う。
 そもそもトリファは、自分の好奇心の為に多くの胎児乳児幼児を実験体とし、傷付けさばき開き殺したリザが赦されるなど、露ほども思っていない。 子を成せるなど欠片も信じていない。

 にも関わらず、50年前から一切の殺生も姦淫も断ち、禁欲的に自分を律して生きるリザなりの贖罪が愚かでならないのだろう。 だからこそリザを犯すのだ。甘い夢を見るなと自覚させるために。
 或いは孤児院で多くの子どもを慈しんだ彼にとって、同じ子どもを人でなく物として扱っていたリザは相容れない存在なのかも知れない。 相反する過去を持ちながらも同じ屋根の下で何年も暮らしてきた矛盾を、今になって質そうとしているだけ。



 でも、私は誰に赦されたいのだろう?

 唐突に疑問が浮かんだ。

 私が殺した幾千の魂? 居もせぬ神? 違う。
 目に見えぬ者たちにではなくて、私はきっと、どんなに手前勝手で、理不尽だとしても、ただ。

 ただ目の前の彼らに赦されたかった。
 トリファとテレジアに赦されたかった。
 罪業の塊の様な私を、それでも構わないと受け入れて欲しいと。きっとずっと、密やかに祈っていたのだ。
 だから、それが叶わないと理解したからこんなにも、こみ上げる涙を抑え切れない。


「愛していますよ、リザ」

 リザは強く目を閉じて耐え忍ぼうとした。襲い来る快楽の波からではない。赦すものかと繰り返す、彼の声から逃げたくて。












2008.3.25

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