狼牙が全国統一を果たして数か月。彼方は真宿へ戻り、変わらず煎餅屋を切り盛りしていた。
 真宿から魔界孔が消えた以外に彼方の生活に変化はない。近所の住人を客に煎餅を売り、他愛ない雑談に花を咲かせ、夜は売上の計算などの雑務と、 明日の仕込みを終えて床につく。

「おや」
「よ。久しぶりだな。醤油味一つ」
「はい」
 何の前触れもなく現れるのが狼牙らしい、と思う。仲間に国内を任せ、久那岐と共に国外へ出たと聞いたが、それを問うのも野暮かも知れない。
「変わりないか」
「ええ、お陰様で御覧の通りですよ」
「そりゃ何より」
 ちょうど焼き上がった煎餅にはけで醤油を塗り、袋へ詰めてゆく。と、同時。

「変わんねーのは、魂塚のねーちゃんもか?」

「……どうしてそこで妖姫さんが?」
「あんたの煎餅にも用はあったんだけどよ、もう一つ妖姫にも聞きたい事があってな。此処に来りゃ嫌でも会えると思ったんだが」
 彼方の返答を待つ狼牙は、しかしある程度の予想はついているようだった。判った上で彼方の反応をうかがっている。
「生憎ですが、妖姫さんとて毎日此処へ来る訳ではありませんよ」
「へえ。最後に会ったのは?」
「……いつでしたかね。真宿と言えど広いですから、そうそう会う事も、」
「らしくねえな、彼方」
 言葉を遮った狼牙は、不敵な笑みを浮かべて此方を見遣る。
「のらりくらりかわすのはお前の十八番だが、今回は分が悪いんじゃねえか?」
「おつりです」
 彼方が煎餅と共に渡した小銭を狼牙は受け取らない。代わりに苛立ちも隠さず更に問い詰めてくる。
「妖姫は死者の魂や男の精気を糧にしか生きられない。んで魔界孔は妖術の力を高めてた。孔がない頃どうしてたんだか知らねえが……急に後ろ盾がなくなったようなもんだ。少なくとも今、元気でバリバリお前を追っかけ回す真似は出来ねえだろうよ」
「――外見が幾ら変わらずとも、長く生き過ぎた代償が零な訳はありません。些細なきっかけで簡単に綻びる。彼女の場合は、それが魔界孔の消滅だったのでしょう」
「そこまで判っててほっといてる、ってか?」
「何かしようにも、妖姫さんの方が此方を避けているようですから。逃げる女性を敢えて追う趣味はありませんし」
「……」
 狼牙は言葉を切り、じっと彼方の真意を探るように眼を覗き込む。だが、彼方とて早々顔に感情を表すまい。やがてあきらめたように狼牙の口からため息が漏れた。
「また来る」
「今後とも御贔屓に」
 物言いたげに、しかしこれ以上無駄とも判っているのか、狼牙は不機嫌そうに店を出ていく。それを見送る彼方は最後まで笑顔を崩さずに――。

 否、崩さずには居られなかった。

「僕も随分、大人げないですね」
 狼牙の姿が見えなくなるや否や、自嘲気味に彼方は呟いた。凭れた椅子の軋む音がやけに耳につく。

 妖姫が姿を見せない理由など、狼牙に言われるまでもない。狼牙は指摘しなかったが、彼方は「妖姫が彼方を避けている」事を自覚していた。つまり、妖姫に 避けられた事実があるという事だ。

 静かだと落ち着いていられたのは3日もなかったと思う。
 病かと心配して1日、もぬけの殻の住処を見付けるのに更に数日。妖姫の妖術の残滓を元に彼女を探すも、気配を頼りに辿り着いた先から慌てて逃げた跡が感じられるばかり。

 追われていた自分が追っているのが滑稽と言えば滑稽だった。 妖姫を煩わしく思った瞬間など数えきれない。だが、いざ追われなくなると、それはそれで物足りない。何故そう思うかなど、とっくに自覚して――。

 ガララッ
 やや乱暴な音と共に、一度は閉じられた店の扉が再び開かれる。客かと思いきや、隙間から覗いた顔は先ほど帰った狼牙だった。溜息も漏れよう。
「貴方のまた、は5分後ですか」
「言ってろ。それより聞きたいんだが、」
 言葉を切り、狼牙は扉を更に横へ開いた。そのために、狼牙の右半身も彼方に見えるようになったのだが。

「……!」
 驚愕に息を呑む。
「へえ、あんたもそんな顔出来んだな」
 狼牙の揶揄も今は言い返せない。狼牙の右肩に力無く顎を乗せ、背負われている傷だらけの女。いつも整えていた髪も今は簪もなく、結われもせずに乱れたまま。 抱えあげた体も骨ばっているが、間違いなく。
「この女は妖姫で間違いないな」
「……ええ。どちらに……?」
「この近くの路地裏で倒れてた。ずっとそこに居た感じじゃなさそうだったな。歩き回って辿り着いた先で力尽きたんだろ。とりあえず寝かせた方が良さそうだぜ」
「あ、ええ。此方へ」
 店の奥の和室に布団を敷き、そこに寝かせた。意識が戻る様子はない。最初に狼牙が本人確認をせざるを得ないほど、彼女は弱っていた。



「傷の手当てと、……着替えさせた方が良いでしょうね」
 彼方が救急箱や清潔なタオルを用意している間、狼牙は妖姫の着物を脱がせ、傷の様子を見た。
「取っ組み合いの喧嘩でもしたのかよ妖姫は……。何処もかしこも傷だらけじゃねえか」
 白い肌に映える赤い裂傷は、妖姫の体の至る所に散在している。そのどれもが深い傷で、肉さえ見えるのではと思わせた。
「……これは物理的な怪我ではありませんよ。おそらく、自然の摂理に従い老い朽ちようとする細胞と、それを阻止する僅かな妖力が相殺されて体の内側から 裂けた傷でしょう」
 丁寧にタオルで体を拭き、傷口を消毒しながら彼方は説明すると、狼牙の顔色がみるみる変わっていった。此処まで酷いとは予想していなかったようだ。
「精気、だったか。それを妖姫にくれてやれば治るのか?」
「可能性は低いと思いますよ。おそらく妖姫さんもこうなる前に試みた筈でしょう。にも関わらずこの状態ということは、妖姫さんが精気を吸えなくなっていると 考えた方がいい。死者の魂も同じではないかと」
「……ち。いやに冷静だな、お前」
「僕が焦って妖姫さんが治るなら焦ってもいいかもしれませんけどね」
 言いながらも、彼方はてきぱきと処置を行っていく。その方面に明るくない狼牙は、更に他人の家という自分のテリトリー外であることも相まって この頃には手持無沙汰になっていた。
「すみません、買い物を頼まれてもらえませんか?」
「買い物?」
「妖姫さんの着替えです。今着ていたものは流石にもう着れませんので、新しいものを、見繕ってきてもらえませんか。そういうの、お得意でしょう?」
「一言多い奴だな」
 とは言うものの、狼牙も何も出来ずにいるよりは、と思ったのだろう。此処から近い衣料品店を幾つか聞いて、狼牙は店を出て行った。


「……さて、」
 一通りの手当を終えて、彼方は息をつく。相変わらず、妖姫の意識は戻らない。当たり前だ。こんな手当など応急処置でしかない。弱った妖姫を 回復させるために必要なもの。それは、

「強大な精気か、死者の魂なら、或いは……」

 或いは、弱った妖姫でも吸えるかもしれない。そして、幸か不幸か彼方は前者なら手持ちはある。てっとり早く言えば、精液だ。 だが、さすがに意識のない妖姫に欲情出来る筈もない。しかし、体液なのだから、精液以外でも代用が効く。

 思い浮かぶのは唾液しかない。
 躊躇いはあまりなかった。彼方は身を屈め、妖姫の唇に指を滑らせる。紅を差さぬ唇はかさついて、それがやけに彼方を物悲しくさせた。 そのまま彼方は舌を伸ばして、渇きを潤すように妖姫の唇をなぞりあげた。次いで唇を重ねて――その矢先、妖姫の方から深く口付けられ、一瞬彼方は驚く。 無意識に水分を求めた故の行動だったらしい。彼方は自分の咥内を這い回る妖姫の舌を享受し、好きなだけ貪らせた。 暫くの後、不意に舌の動きが鈍り、唇が離れた。と同時に妖姫の目がうっすらと開く。

「……かな、た?」
 ただ、意識は薄く夢見心地と言った様子である。どうしたものかと彼方が思案していると、
「会いたかった……」
 腕を彼方の首に回し、妖姫は縋るように彼方の頬に自分の頬をあてがった。彼方の頬が熱を奪われて急速に冷えていく。
「そなたに焦がれた余の幻か? ……否、構わぬ……最期に余はそなたに伝えたかったのじゃ。そなたを愛していると」
 耳元をくすぐる妖姫の吐息は、甘く死の香りがした。

「そなたの力は強大じゃ。今の状態の余でもそなたを食らえば回復出来よう。……じゃが余はそなたを殺すなど出来はせぬ。そなたと共に在れぬなら余は余を殺す。 ……長く生きたが、そう思ったのは初めてじゃ」
 自嘲するように妖姫は弱く笑んだ。自分が永久に若く美しく在るために、生死問わず幾つもの命を冒涜した者の言葉と思うと哀れという他ないのだが、彼方はそれを笑えない。
「逃げぬ、な……やはり幻か……」
 妖姫は腕に籠めた力を少し強くして彼方を抱き寄せた。以前、捕虜になった妖姫を迎えに来た時の事を言っているのだろう。 そのまま妖姫は目を閉じて、再び眠りにつきかけて――それを、彼方が引き止めた。

「逃げない現実もありますよ」

 静かにそう告げると、ぴくりと妖姫の腕が震えた。ゆるゆると緩む拘束に任せて妖姫から距離をとる。妖姫と目が合った。 今度は完全に覚醒し、驚きに見開かれる目。反射的に彼方から離れようとする動きを先読んで、今度は彼方が妖姫の腕を掴んだ。
「彼方? なぜ」
「ずっとね、あのままで良いんです。 貴女がずっと僕を追い続けて、僕は逃げながら、時々気まぐれに振り返って、妖姫さんをからかって遊んでいられたら、良いんです。 貴女がやめたいと言っても、僕はそれを許しません」
 この人は判っていない。彼方が本気を出せばどうなるか。妖姫は他の数多の男と同様に、自分が食らえば彼方は死ぬと思っている。 現に今も、妖姫は彼方から逃げようとしている。生存本能に負けて彼方を殺すかもしれないから。
「彼方、彼方っ、離れよ……っ」
 妖姫は泣きそうになりながら彼方の拘束から逃れようと身を捩る。だが、彼方は許さない。
「貴女に殺されるつもりはありませんよ。僕はまだ生きていたいですからね。そして貴女も逃がさない。此処で逃がしたら、今の貴女は死んでしまう」
「……っ? 彼方、何を、」
「意味が判りませんか? でも、」

 ――教えてあげません。

 彼方の言葉を、最後まで妖姫は聞こえていたかどうか。訳も判らないまま、妖姫は再び唇を塞がれて、そのまま意識を手放した。 それは彼方の思惑通りだ。
 彼方ほどの力の持ち主ならば、妖姫に精気を吸い尽くされる事はない。適度の精気を妖姫に送ることなど簡単なのだ。 自分でも御するのに労する力を行使するのは好きではなかった。だが、妖姫はその「したくない」と彼方が避けてきた色々なものを踏み越えてしまう。だから。
「責任はとってもらわないと」
 儀式の様に、白い額に口づけて彼方はひとりごちた。眠り姫と化した妖姫が目を覚ますのは、まだずいぶん先になるだろう。



 数日後。
 再度真宿を訪れた狼牙は、走り回る妖姫と鉢合わせた。走り回っている割には息一つも切らさず、着物も髪も乱れがないあたりが妖姫らしい。
「彼方、彼方〜っ!! お、狼牙よ。彼方は見ておらぬか?」
「いや、見てねえな」
「余と共に生きていきたいとやっと本心を余に告白したというのに、次の瞬間には「友達として」だの温いことを言いおって!  どれだけ焦らせば気が済むのじゃ、彼方は!」
 文句を言いながらも、既に眼中に狼牙はない様で、妖姫の姿はあっという間に雑踏へ消えていく。その後ろ姿を見つめながら、狼牙は僅かに笑って踵を返した。






彼方&妖姫「貴女が世界を壊すなら」END

2009.11.23

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