まさしくんの 雑談

1 石見銀山

江戸時代の社会では、「苗字」は武士など特定の人にしか許されていない、身分上の特権です。そのため村々で公式に苗字を
持つものは、せいぜい一人多くて2人くらいでした。ところが、銀山町を 見ると100人程度の人が苗字をもっているのです。
この数は江戸時代の一般社会では到底考えられないことですが、なぜ彼らは苗字を持つことができたのでしょうか?
銀山町で苗字を持つものはすべてが「山師]あるいは
「 銀山師」と称する人たちです。彼らは鉱脈を見たてる
という特殊な技能を用いて、間歩から鉱石を掘り出し幕府へと
運上銀を 収めます幕府もまた銀という{御宝」を生産する
彼ら積極的に保護し苗字帯刀という身分上の特権を与えることで鉱山の開発を進めたのです。その意味から 山師あるいは
単なる鉱山経営者という理解だけではなく、実際には
特権身分としての呼び名で あったといえるでしょう








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石見銀山
  
    石見銀山が 本格的に開発された16世紀は。国内では群雄割拠の戦国時代。
     戦国乱世を勝ち抜くため多額の軍資金が必要であった戦国大名たちにとって「宝の
     山」である石見銀山はまさに垂ぜんの的となりました。
     銀山は、当初周防の大内氏支配していましたが。後に出雲の尼子氏と
     安芸の毛利氏によつて激しい争奪戦が 展開されました永禄5年(1562)
     尼子方で山吹城の城主本城常光を懐柔策により軍門に下らせた毛利氏は
     尼子氏から銀山を奪還しついに30年余りにもわたる争奪戦に終止符を打った
     ところで 、毛利氏が銀山を支配すると、同氏が信仰する厳島神社と銀山との
     関係が 深くなり儀礼や社殿の造営などに石見銀が活用されるようになりす。
     「厳島回廊棟札」によると永禄11年(1568)年から天正20(1592)年までの
     24年間で銀山住人が同神社へ寄付した人数は都合26人にも及びます。
     石見銀山と厳島。世界遺産でも 不思議な 縁があるようです。

石見銀山
 
  江戸時代の大森は陣屋町です。陣屋町とは代官所のことで、性格的には松江や浜田のよ  うな 城下町と言った所でしょうか。その証拠に大森町には地役人と呼ばれる武士が住み
  また熊谷家のような代官所の御用を勤めた商人もいます。大森代官所に勤めた
  地役人は、銀山附役人。同心中間からなり、人数は合計85人前後彼らは大森や銀山の   町中に住みおおむね世襲して代々鉱山や村々の支配にあたったほか、河島氏のように
  大坂代官所へ出向するものも中には いました。ところで地役人たちの由緒書を見ると
  意外にも安芸・出雲・武蔵・相模・駿河・甲斐・などの遠国を本拠地とするものがいることが
  わかります。実は彼らこそ初代奉行大久保長安が自らの支配地域から連れてきた
  人々の後えいなのです。長安各地から選んだ優れた人材を登用することで銀山の
  経営改革や天領支配の基盤つくりを行いました石見銀山に2次シルバーラッシュをもたらし  た長安の華々しい実積は地役人という優秀な役人によって支えられていたといえるでしょ   。う
   



石見銀山 

  世界遺産に登録された 石見銀山遺跡、大森町の町並みや温泉津温泉に 泊まっただけ  では、石見銀山遺跡の世界的価値は、なかなかわかりません。しかし大航海時代の16世  紀、石見銀山は日本の銀鉱山してヨーロッパ人に唯一その名を 知られた 存在だったの  です。



石見銀山

  石見銀山の歴史が,今もなお 人々の記憶として継承されている背景には「銀山旧記」とい   資料の存在があります。銀山の発見から戦国大名の争奪戦、約13トンという未曾有の運  上銀を、徳川家康に収めた山師安原伝兵衛の、歴史的事実と物語りを織り交ぜながら
  石見銀山の歴史を記述しています。ところで 一口に「銀山旧記」といっても、実に多種
  多様です。その名前も「おべに孫衛門縁起」「銀山記」などさまざま名前がつけられている
  ほか、江戸時代には写本も沢山作られ、読み物としても多く流布しました。
  銀山が衰退する中で 山師や銀山役人たちは自らの地位を回復するため「銀山旧記」
  を、編さんして幕府への 貢献をアピールすることも行われました。