綴り方集

 その1

 
平成16年は、私たち旧制岡山二中19期の卒業60周年にあたります。そこで、旧友相計り40年・50年目に続いて、記念誌第3集を作成することになり、小生 次の様な拙文を寄稿
しました。ご一読戴ければ幸いです。

   記念誌に寄せて

     こころに残ることども

                           木 村   茂

 日中戦争さ中の昭和十四年四月、我々十九期は、憧れの二中に入学した。 真新しい角帽が照れくさくもあり、嬉しくもあった。そして、希望に膨らむ胸中には、多少の不安もあったと思う。 授業の雰囲気も今までとは大きく変わり、田舎育ちを戸惑わせた。
初めての教練の時間は、特に緊張した。近藤中尉殿に、巻脚絆の巻き方を教わる。巻き方が悪いと、ずり落ちたり、解けたりして、大声で怒鳴られたりした。ズボンの前ボタンでも外れていようものなら、それはそれは大変なことになった。
 そんな近中さんの孫娘が、昭和三十九年春、山陽放送に入社してきて、ラジオ放送の現場に配属になった。彼女は、なかなかのしっかり者で、正確さとスピードが要求される仕事も短時間でマスターし、大いに頼りになる存在であった。さすが、じいさんの血を引いているだけのことはあると、ひとり納得したことだった。その後、福利厚生課への異動の時も、また一緒という不思議なご縁であった。

 二年になると、小川先生の英語の授業に、まず、度肝を抜かれた思い出がある。後任の菅先生も短い期間だったように思う。その菅先生は、国学者として知られる、菅茶山のお孫さんであったことは、先年、芳原先生から伺って、初めて知ったことである。
 二年・三年は井藤先生の担任であった。代数が苦手の小生は、定理なるものを用いてポンポンと解いていく幾何に興味を持つようになった。先生の授業が大変わかりやすかったせいもあった。三年一学期の中間試験の成績について、「今度は 大分上がったネ」と云われた一言で、一気に学習意欲を湧かせた記憶が、今になっても懐かしい。

 この年の十二月八日、日米開戦となる。邑久郡の片田舎から、片道二十kmの道程をこの日もポンコツ自転車で通学していたところ、益野のあたりで、運悪くパンクして、遅刻する破目になってしまった。恐る恐る教室に入ると、XX先生が、その話をされている最中で、一時限をずっと入り口に立たされたまま、長い授業がようやく終わった。そして「今日のような日に遅刻とは何事か」と大目玉を喰らった。

 五年の時も、担任は井藤先生であった。教室の黒板の上には「生命奉還」と[黙而得道」の標語が掲げられていた。それが当然の緊迫した時代であった。そんな思いを抱いて、満州国陸軍軍官学校なる未知の世界へ向かって、新潟港を出航したのは、十九年の三月二十八日のことであった。五族協和・日満一徳一心 を理想とした満州国。果たして、理想の通りであったか どうかは、簡単には云えない点が多いと思う。

仮に、我々が、めでたく満州国軍の将校になったとしても、異国民の兵隊を引き連れて実際に戦争が出来るかどうかは、現世界の民族紛争の実態を見れば明らかであろう。事実ソ連軍の満州進入と同時に、各地の満軍部隊で反乱が起こり、多くの日系将校が無念の死を遂げている。その中には、二中十五期・軍官学校一期生の山本繁上尉(大尉)が含まれていることを記しておきたい。

 後に聞いた話によると、満軍の中には、すでに多くのスパイが潜入しており、日本の敗戦の情報や、ソ連の侵攻の情報など、かなり確実なものを掴んでいたようだ。軍校の中でも、中共軍・国府軍両方の組織があって、我々の中隊長の関少校(少佐)は、中共軍のエリート。その下にいた第四区隊長 張上尉(大尉)は国府軍系に走って、後に台湾へ渡ったことが確実になっている。近くにいながら、敵味方の区別がつかないのは、今のイラクと同じかも。

 そんな実情とはつゆ知らず、一年数ヶ月の予科の過程を修了した我々六期生は、幾つかの紆余曲折はあったものの、当初の予定どおり、陸士に入校する事になり慶びに沸いた。後輩の七期生に送られて同徳台(軍校の台地は皇帝によって こう命名されていた)を出発したのは、七月十六日と記録にある。羅津港から軍の輸送船につめこまれた。南方へ移動する関東軍の部隊と一緒だった。救命胴衣なるものはといえば、竹の筒を前後二・三本ずつロープで繋いだ物で、動くとガラガラと賑やかだった。トイレは、上甲板の舷側に縛り付けた木箱である。それが、二メートル位の間隔で何個も並んでいる。用事があれば、手すりを越えて乗り込むのである。箱が少し外側に傾いているのが怖かった。下には、程よい穴があいて、はるか下に白波が見える。日本海型の水洗トイレだ。

 輸送船には、護衛の海防艦がついてくれた。その艦長が、偶然にも、山口出身の同期生の兄上と聞かされて心強かった。米潜水艦を警戒して、かなり複雑なコースを取ったようで、往路の倍以上の時間がかかった。新潟が見えだすと、みな甲板に駆け上がった。

新潟の港が懐かしかった。本土の土を、軍靴で思いっきり踏みしめた。それは、終戦間近の七月二十五日のことであった。

八月九日には、ソ連軍の侵攻がはじまった。後輩の七期生は、シベリヤへ抑留され、多くの犠牲者を出している。その中の一人に、二中二十一期の馬場昭和君がいる。柔道の有段者で、二中時代硬派で鳴らしていたそうだが、本当は、親思い、兄弟思いの、心根の優しい人間であったと思う。ここに、改めてご冥福をお祈りしたい。

新潟の港には、我々にとって特別な思いがある。そんな、思い出の地を、もう一度訪ねてみることは、長年の夢であった。先年、RSKの元アナウンサー安田了三氏の [東北一周ドライブ・三十日」と言う写真入のEメールを受信。単細胞の夫婦は、直ぐに触発されて、平成十三年の秋、新潟を皮切りに、十五日間・三千六百キロメートルのドライブを楽しんだ。
 コースの概略 北陸自動車道経由新潟酒田男鹿半島角館田沢湖八幡平十和田湖奥入瀬八甲田山弘前中尊寺松島天童山寺猪苗代湖五色沼会津若松日光軽井沢小諸長野善光寺白馬村直江津北陸自動車道経由

 この記事は、山陽放送OB会のホームページに投稿し、また、わが同期 小林成一君のホームページにも写真入で掲載されているので、インターネットをされている諸兄で、御用とお急ぎでない方は、一度アクセスしてみて欲しい。

    URL  http://www2.kct.ne.jp/~snet4650

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 因みに、小林君は 我らがパソコングループの大先生で、翁草会なるEメールグループを組織して、みずから、情報タワーとしての役割を担うと言う大きな存在である。小生など、彼をたよりに、いつまで経っても乳離れできない、誠に、うっとうしい存在になっているに違いない。

                                完

 

 (追記)

  井藤先生を偲んで

 先生には、昨年九月二十九日 九十六歳の天寿を全うされた旨承り、心より哀悼の意をささげ、ご冥福をお祈りしたい。
 先生とは、前記のように、特別なご縁があった。さらに、戦後も幾度となく お宅をお訪ねしてご薫陶を戴いた。昭和二十年代の終わりの頃には、四条畷のお住まいまで、突然お伺いして、大変ご迷惑をお掛けした事など、つい先だってのように思い出される。また、息子の大学受験の時には、ご自身の著書である 数学の参考書に、わざわざ為書をいれて激励していただいた。その参考書は、いま孫の書棚におさまっている。孫は、幸いにも昨年 第一志望の大学に進学できて喜んでいる。

 終わりに、先生 八十五歳にして、ご恵送戴いた色紙「何歳になっても 夢と希望を」をご紹介させて頂き、在りし日を偲びたい。




 その2

  次の一文は、平成17年度旧満州国陸軍軍官学校の同期生会が、奈良市で開催されるにあたり、配布される戦没者追悼文集に依頼され、寄稿したものです。

 

   藤田正治君を偲んで          軍2/1 木 村  茂

 

 軍官学校では、創立以来、軍官生徒と軍需(経理)生徒が、一緒に予科の教育を受けることになっていた。更に 我々六期生からは、軍医・獣医生徒も加わることになった。その中には、軍官生徒を超えるような元気者も多かった。藤田正治君もその中の一人であった。朝鮮の中学校四修で、在学中馬術部に所属しており、馬が大好きで獣医の道を選んだと聞いた。同期の軍医生徒 山辺慎吾君は、同じ中学 同じく馬術部の一年先輩にあたり、以前から兄弟同様の間柄のように見受けられた。その山辺君が存命なら、この追悼記を書くに最もふさわしい人物と思うし、喜んで執筆してくれるであろうものをと残念である。小生はといえば、中学時代に、ほんのわずか乗馬の経験があっただけでも、最初から、なんとなく馬術に興味があり、それがだんだん昂じて 遂には騎兵の道を歩むことになる。その間、同寝室でもあった彼からは、乗馬の技術的なことは勿論、馬に関する雑学など色々教わり大いに参考になった。特に当時 入手困難であった馬術教範など貸して貰えたのが有難かった。兵科発表の時に、「将来 どこかの部隊で一緒になれたらいいな」と話し合ったことも今は懐かしい。母子家庭と聞いていたが、なかなかの元気者。いつも背筋をピンと伸ばし、大きな目をパチパチさせながら、何事にも真剣に取り組む頑張り屋であった。その反面、ひょうきんなところもあり、区隊長や教官の物まねをして皆を笑わせることも度々あった。中でも 柴崎区助の真似を最も得意としていた。また 朝鮮育ちの彼は、その風俗習慣にもくわしく、朝鮮料理やキムチの話など目を輝かせながら語ってくれたりもした。その少々早口で、喜々とした語り口に、食べ盛りの胃袋が騒いだりしたものだ。

 昭和十九年十二月、七期生が入校すると、最初の指導生徒に選ばれる。演習に内務に、自分のことで精一杯の台上生活の中にあって、この任務は大変だったと思う。

「姿勢が大変よく、几帳面な性格。動作が速く、キビキビしていて、さすが模範生徒という印象を受けた。その後 獣医生徒と聞いて驚いた記憶がある」

「自習時間に 普通学を教えて貰ったこともあり、指導熱心な人であった」

とは、6/1の後輩たちの言である。

彼は また、ある同期生に 「俺は獣医よりも軍官の道を選べばよかった」と洩らしていた事を最近になって耳にした。もし、そうしておれば、満州の辺境の地で、一命を落とすことも無かったものをと悔やまれる。かつての東安省勃利の騎兵団に隊付中 八月十一日 部隊の反乱により戦死とされているものの、詳細は不明のままである。

「俺は早生まれの四修だから一番若いんだぞ」と冗談半分に威張って見せ、軍官を追い越せと張り切り、南嶺の忠霊塔に沈む夕日に、満州国への熱情を人一倍たぎらせていた彼。そんな彼にとって、このような最期を遂げようとは、ほんとうに残念であったろうと思うと、愛惜の情切なるものがある。ここに、在りし日の紅顔の美少年を偲びつつ、拙文ながら 謹んで追悼記を捧げたい。

 


  その3

     わが友をたたえる                       平成17年9月16日

 9月15日の山陽新聞朝刊の全県版に、下記の様な記事が掲載されていたのでご紹介します。
彼 高宮 明君は、旧満州国陸軍軍官学校の同期で、同区隊、しかも同県人ということで、入校時から
特別親しい間柄であった。 そして、厳しい環境の異郷の地で、お互いに励ましあい、助け合って、猛訓練によく耐えて来たものである。 僅かな自由時間に、岡山弁を丸出しにしての故郷の話題が、弱冠17歳の
少年の心をどれだけ支えてくれたことか。 いま 思い出しても懐かしさが込み上げてくる。
 そんな 彼は、終戦後 地元村役場の収入役を皮切りに、鏡野町の産業課長、同町長から県議会議員へと、一途に地方行政に携わって来た。その中で、最も苦労したのが苫田ダムの建設であろう。時折
会うことがあっても、あまり、多くを語ろうとしなかったけれども、その心労の並大抵でないことは十分察知
出来たつもりであった。
 今回 自費出版された歌集は、ダム完成・湛水までの長い年月にわたって、常に、犠牲者に深く思いを寄せ続けた彼の魂の叫びとして、多くの共感を得るに違いない。


 9月16日毎日新聞岡山版にも同記事が掲載されていましたので追加しました。