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佐藤 準
1955年、東京生まれ。CHARのアレンジャー、キーボードプレーヤーとしてプロデビュー後、数々のセッションに参加。その後東京音楽祭、FNS歌謡祭、日本レコード大賞ほかで、数多くの最優秀編曲賞を受賞。自らのアルバムを発売するなど、作曲家、サウンドプロデューサー業のほか、ミュージシャンとしても幅広く活躍。



 僕は小学生の頃までは、いわゆる腕白じゃない、おとなしいタイプの子でしたね。両親が音楽をやっていた関係もあってピアノを習っていましたし、指を怪我するといけないからってスポーツも止められていたんです。親としてはクラシックの指揮者にでもなれればいいとでも思っていたんでしょうね。僕自身は音楽は好きだったんですけど、当時は男の子がピアノを習っているのが珍しかったし、友達なんかには負い目がありましたね。でも、スポーツとか、やっちゃいけないって言われると逆にやりたくなるでしょう?だから隠れてやったりしていましたよ。

 そうしているうちにグループサウンズが流行ってきて、そのマネごとみたいな事を始めてまして、最初の頃はバケツをドラムを代わりに叩いてとか、ギターも何もないからホウキとかを使ったりしていたんですけど(笑)。そのうちエレキギターはさすがに買えないけどフォークギターを買って、コーラスグループみたいな事をやり始めたんですね。それが自分から音楽をやりだした最初です。

 僕の地元では、世田谷区とか目黒区とかの、あの辺の子供達が集まってバンドをやっていて、バンドがすごく多かったんですよ。その中にCHARのバンドなんかもありまして、ステージをやっているうちにCHARと意気投合して、そのうちに一緒にバンドをやりだしたんです。そういう意味では、音楽的な環境には、すごく恵まれていましたね。その頃から段々にロックンロールが好きになっていったんです。当時は、色々な音楽を聴いていましたけど、その中でも特に好きだったアーティストは、レオン・ラッセルやジョー・コッカーは今でも好きですね。それとやっぱりエマーソン&エイトパワーが一番最初の憧れですね。すごくキーボードがメインのロックンロールだったんです。

作曲や編曲の仕事は、アルバイトだと思ってやってました。


 高校を卒業してからも、バンドをやりたかったので就職もせずに、ちょこちょこアルバイトをしたりしながら学園祭とかコンテストとかに出たりしていたんですね。バンドってやればやるほど赤字が出ちゃうんですよ。楽器を運ぶのに、誰も免許を持っていないから友達に頼んで、その友達にも幾らか払わなきゃいけないし、その楽器車を借りるのにも何万円もかかりますし。出演料なんて全部で6千円ぐらいですからね。メンバーで分けたら一人千円ぐらいにしかならないんです。食事したらそれで終わりですよ。だから、何でそれでバンドやっているのかっていったら、ただ人前で演りたいからって気持ちだけですね。でも、そのバンドをやっていたのは一年ぐらいですけど、あれはあれで楽しかったんです。

 僕がこの仕事を始めるきっかけになったのは、今はもうありませんけど、当時エレックレコードという吉田拓郎さんなんかが輩出された有名なレコード会社がありまして、そこに僕は出入りしていたんです。バンドだけだとあまりにも、食べていけませんでしたので、そこで色々なアーティストのバックをやったりしていたんです。僕はバンドでやっていくつもりでしたから、それはあくまでアルバイトのつもりだったんですね。でも、そのうち「編曲もしてみないか」って言われて、そういう仕事をしているうちに、今度は「じゃあ曲も書いてみない?」っていう話になってまして。徐々に今の仕事の延長みたいな事をやり始めて、気がついたらこっちの仕事の方がメインになっていたんです。

 今は、作曲と編曲でいうと、編曲の仕事の方がずっと多いですね。自分で創った曲って作曲家と言われるほどの数ではないんです。もともと作曲家志望じゃないですし、どちらかというとアレンジのように、レコーディングしたりサウンドをクリエイトしたりする作業の方が好きなんですね。

 アレンジの仕方というのは、最初に曲の入ったテープをもらって、誰が唄うのかを考えながらアレンジしていくんです。歌詞は後につく場合が多いですね。でも、往々にして僕は怠け者ですから、打ち合わせしてカセットテープをもらっても、その場で忘れていったりしちゃうんですよ。それでレコーディングの当日スタジオに行って、その場でアレンジをしたらそのアレンジが一番いい出来だったりして(笑)。やっぱり音なんて詞とは違いますからね。頭の中でイメージして、それをまた再現するわけでしょう?譜面に書き留めたとしても、イメージした音とは違うですね。譜面っていうのは、本当に伝達を手助けする、その程度のものでしかないから。だから、スタジオに行く直前にワーッてやるとイメージが崩れないんです。音楽って生ものですからね。冷凍食品にはならないんです。



美樹ちゃんの声は、すごく夢を与えてくれる声なんです。

 美樹ちゃんと初めて会ったのは、最初のアルバム「femme」の時なんですけど。その前に僕は、彼女のディレクターの松田直と、彼がまだディレクターになるずっと前からの知り合いだったのですね。それで彼の、ディレクターとしての初めての仕事の時に、僕が曲を書いて一緒に仕事をして、そこで「いつかすごいアーティストを2人で育てようね」って話をしていたんです。

 それから何年もたって、その時話に出ていたアーティストというのが今井美樹ちゃんの事になるんだなと気がついたのは、本当に最近の事です。僕ははっきり言って先見の明みたいなもんはないんですね。松田なんかは曰く、初めて美樹ちゃんと会った時に「この娘は絶対にビックになる!」っていう信念があったらしいのですけどね。その彼の信念と美樹ちゃんのアーティストとしての信念が、今の美樹ちゃんのポジションを築いたんだと思いますね。

 曲を創った時の自分のイメージと、実際に唄われた時のイメージはやはり違ったりしますけど、美樹ちゃんの場合はお世辞じゃなくて、僕が“このくらい”って思っているライン以上の感じに唄ってくれますね。彼女の声には夢があるんです。すごく、夢を与えてくれる声だと思う。彼女は歌のレッスンにしても演技の勉強にしても、すごく努力する人だと思うけど、もともと自分の中に心地よさを持ってる人だから、声も何かフワッとしていますよね。声って、その人の声の質はもちろんだけど、本人のその声にいくまでの精神的なものがずいぶん作用していると思いますから。同じ服を着ていても、不潔感の漂う人っているでしょう?それはやっぱり、その人の心の持ち方だと思います。だから美樹ちゃんみたいに自然に生きている人は、声も清潔感があって美しいですよね。

 美樹ちゃんにこれから唄っていって欲しい歌は、やっぱり“爽やかさ”と、奥に秘めた“セクシーさ”という部分ですね。最近かなり“大人なんだから”ってことを意識した歌創りをしていますけど。でも、誰でもいつかは大人になるわけですし、女性の素敵な所って、やっぱりどんな大人の女性でも“無邪気さ”とか“可愛らしさ”だと思いますから。そうゆう意味で、もう一回子供に戻ってみてもいいじゃないかなと思います。



アレンジャーとしての仕事を減らしたら、もう一つ別のドアが見えてくるかもしれない。

 この仕事で一番大変な事は、やっぱり曲が出来ない時ですね。出来ない時はもう何をやってもダメです。かといって自己嫌悪に陥るとますます出来なくなるから、そういう時は、諦めてさっさと出かけちゃうんです。自分で言うのはなんですけど、僕、そういう気分転換はうまい方なんですよ。それと、カラオケとかには行かないんですけど、唄う事が好きなんですね。唄っていると肩こりが直ったり、疲れ吹っ飛んだり、ストレス解消にもいいって言うでしょう?唄うと体をたくさん使いますから、スポーツしているのと同じなんですよね。だから、スタジオでも、コーラスとかすぐやりたがるんです。美樹ちゃんの今度のシングルでもバックで唄っていますし、前に出した自分のアルバムでも2曲ほど唄っているんですよ。ディレクターには、唄わない方がいいと言われるんですけど(笑)。

 一年の仕事量は、一番多かった時で2ヶ月で50曲という時期がありましたね。ほぼ一日一曲完パケ(音がアルバムと同じ内容で完全に出来上がった状態の事)という状況でした。今はもう、そういう仕事の仕方は出来ないですね。最近はどちらかというと大量生産よりも、一個一個悩みながら時間をかけて創っていくという、そういう仕事の仕方に変わってきていますね。これからは、僕の気に行った人じゃないと引き受けないと思いますよ。アレンジャーの仕事って、毎日違うアーティストをやっていて、それぞれに合わせているだけでも精神的に大変なんですね。それが平気な時もあったんですけど、年とともに段々アーティストごとに気分を変わるのに時間がかかるようになってきたんです。それで一度変えた気分を3日くらいキープしていたら、今まで見えなかった"もう一個別のドアが見えるんじゃないかな″と思うようになってきまして。僕自身の根本は変わらないんですけど、そういう所で、仕事へのアプローチの仕方は変わってきているかもしれないですね。やっぱり僕がいつまでも今の立場にいるよりも、もっと若い人がドンドン出て来るべきだと思うんです。それで僕は僕でまた、これまでとは違った事をやってゆきたいと思いますから。

 今年の暮れ頃には、JTとかアメックスといった、これまでCF用に書いた曲がかなりたまりましたので、それを一つにまとめて軽くBGM的なアルバムを創るつもりです。そして来年からは、編曲の仕事は少し押さえて、本来の、ミュージシャンとしての仕事も少しずつやっていきたいと思ってます。



             (参考資料、 1989年 フォーライフレコード「efie's」 作家ロングインタビュより)