裏街道油槽船団史

The history of Japanese oiler convoy code"Mi"

 雑誌「戦前船舶」第16〜20号に拙稿「裏街道油槽船団史」が掲載されました。ここでは、大阪国際平和研究所の2002年度紀要「戦争と平和vol11」に収録されたダイジェスト版(一部調整)によって、海上護衛戦の実態をやや具体的に見てみましょう。なお、各船団の加入艦船名や行動状況の詳細などは、「戦前船舶」当該号をご覧ください。


「ミ号」船団史〜海上護衛戦の実態を探る〜

はじめに
船団運航とは、国家総力戦を象徴する事例のひとつである。
 本稿は太平洋戦争当時存在した「輸送船団制度」と呼ばれる海上物動形態に関し、ある特定の航路に注目することでその実情に迫ろうとするものである。
 自然現象や人為的脅威などによる遭難から身を守るため、民間船舶が必要に応じて船団(convoy)を組む慣習は古来からあった。だが、第一次大戦において無制限潜水艦戦と呼ばれる海上戦様式が確立すると、船団運航はこれに対抗する切り札的戦術とみなされ、一つの制度として国家による大々的な管理運用がなされるようになった。
 潜水艦という新兵器に対して商船の自衛能力は極めて限られるため、どうしても専門の護衛艦が必要となったが、一国の保有する莫大な量の一般商船に対し限られた護衛兵力で効果的なサービスを行うためには、ある程度船舶の運用効率に目をつぶってでも船舶を集中させる必要が生じる。船団の規模は敵の脅威度と味方護衛兵力の都合、各船舶の任務、経済的需要などの様々な要素を勘案して慎重に決定しなければならない。従って近代戦の中で船団運航は、従来のような運航当事者の持つ選択肢の一つではなく、国家運営の一施策という極めてグローバルな位置付けへと変化したのである。
 純粋な軍事的衝突ではなく相手陣営の経済的運営能力を巡る駆け引きという意味では、戦略爆撃などと同様の性格を持っており、国家総力戦という両次大戦の基本的フォーマットを象徴する事例の一つとすることもできよう。
 ただし、上記のような本質的な視点を当時の日本の為政者が持っていたかどうかは別の問題である。実際問題、極度の軍事作戦偏重を基調に推移した15年戦争当時の日本において、国家全般の運営をじっくり見据えた施策が育まれる余地はなかった。島国日本を支える海上通商の保護と密接な関係にあるべき海軍でさえ、直接的な軍事衝突と関係がなければ通商保護といえども無駄な軍備としか考えていなかったのである。その結果が太平洋戦争の生起であり、日本商船隊は約8割の損失という壊滅的打撃を受け、国家運営の崩壊はおろか国民を飢餓へと追いやることになってしまった。「短期の防衛戦闘しか考慮していなかった」という言い訳は、通用しない。
 このような大局的な考察を行うにしても、太平洋戦争中の日本に於ける船団運航制度の実態を認知しておくことは大いに意義があるものと思う。

 本稿で扱う「ミ号」船団とは、太平洋戦争中数種類運航された特定目的船団の一つである。
 当時、船団運航制度は日本支配下の殆どの海域で採用されており、ル−トが網目状に張り巡らされ、編成された船団総数は数千に上ると見られる。これらは形態上定期編成と特別編成、あるいは目的上資源輸送と兵站輸送に大別され、輸送目的の緊急性や重大性が各船を定期船団へ組み入れるか特別船団の編成を要求するかの判断基準となる。資源輸送の場合は定期編成の流れに各船を組み込む形が主流を占めるが、逼迫した戦時の国情を反映して特別編成の資源輸送船団もしばしば編成されていた。その代表例が南方産油地帯からの石油積取船団である。具体的にはシンガポ−ル(昭南)向けの「ヒ号」、およびボルネオ(カリマンタン)島ミリ向けの「ミ号」の2航路、計百二十余組があった。
 太平洋戦争の直接の引き金となったほど石油問題は重要であり、このような方策がとられていたこと自体は理解できよう。このうちメインル−トと位置づけられた「ヒ号」は、優秀艦船ばかりで編成運航された少数精鋭型の船団だった。一方、サブル−トとして後から開設されたのが「ミ号」である。比較的雑多なメンバ−で運航され、期間が短く、定期船団的性格も多分に織り込まれ、実情は地味そのものだ。しかしその目的が日本経済を支える石油の輸送である以上、あくまで重要性は「ヒ号」に劣るものではない。逆にこのような船団の実体を解き明かしていくと、そこには当時の船舶事情の縮図と言って良いほど様々な要素を垣間見ることができるのである。


1 ミ号船団開設に至る状況

緒戦期の北部ボルネオ
北部ボルネオ油田地帯は、港湾能力などの問題で当初あまり重視されなかった。
 日本軍は1941年12月の太平洋戦争開戦から4カ月ほどで東南アジア資源地帯を占領したが、このうち石油産出の中心地とされたのはスマトラ島であった。パレンバン一帯だけで当時の日本全体の需要を充分満たすだけの産出量が得られたし、昭南という優れたタ−ミナル港も控え、穏やかなマラッカ海峡は集積用小型タンカ−(中積船)の運航にも都合良いからである。一方、ボルネオでは東岸のバリクパパンが良質として定評があったため、海軍が給油燃料の積出港として重用した。
 最も使い辛かったのが、意外にも日本から最も近いボルネオ北岸のミリ一帯であった。バラム河の河口が外洋へせり出した遠浅の泊地で、油槽船はそのはるか沖合までのびている給油ブイに取り付いて積取りを行う。波は荒く、昭南からもマニラからも遠いため中積も不便。当然港湾施設も不備。結局ミリはその後かなりの間顧みられず、一部の低速船が利用する程度にしか機能しなかった。
油槽船船腹事情
日本の石油事情は、タンカー不足に脅かされていた。
 1941年当時日本が保有していた商船は約600万総トン強、世界第3位だった。戦時所要の船舶量は満たしていると考えられていたが、この値は日中戦争以前から決まっていたものなので、実情にそぐうかどうか疑わしい。当然ながら実戦段階で行われた戦線拡大に対応できる余力はない。
 まして問題なのが油槽船であった。上記のうち油槽船は1割以下、大半を軍が徴用してしまったため民需船は僅か10万トン余。載貨量にしても15万トン程度である。いくら産油地が確保されても内地へ運ぶ手段がないのは如何ともしがたく、現状では約7〜800万トンと言われた開戦当時の備蓄燃料が底をつくのも時間の問題であった(実際の戦時国内消費実績は年400万トン弱)。
海軍の認識
海軍は伝統的に、海上護衛に無関心だった。
 長期戦は国力差拡大が進むため圧倒的不利としながら、船舶の損失は一定レベルで抑えられるとした開戦前の海軍の予測には明らかな矛盾があり、その認識不足が如実に示される好例である。
 1回艦隊決戦をやれば終りとの前提で全てが成り立っていた日本海軍には組織的海上護衛のノウハウが殆ど無く、況んや南方から資源を調達しながら何年も戦争を続ける事態など全く考慮していなかった。戦時中日本海軍が実施した海上護衛戦は、素人芸と極言されても仕方ないものだった。
 内地〜南方間の物動護衛に充当すべき艦艇も当然皆無で、開戦にともない急遽北洋漁業警備用の海防艦(860トン。軍艦は排水量という重量単位を用いる)を抜擢して量産化に着手する状況であった。第1艦擇捉の就役は43年3月である。
船団制の導入
開戦後導入された船団運航制度は、きわめて実効の乏しいものだった。
 1942年4月、南方から内地までの資源輸送を一貫的に護衛するため第1海上護衛隊が設立され、船団運航制度が導入された。だが戦力は護衛対象となる商船1000隻あまりに対し18隻に過ぎず、内容も徴用貨物船を改装した特設砲艦や旧式駆逐艦など貧弱であった。船舶の稼行率が重視されており、1個船団は商船5隻前後で編成し数日置きに運航されたが、到底満足な護衛はできず大抵1個船団1隻、3割程度は無護衛で遭難時の行方不明防止程度の価値しかなかった。陸海民の各管轄同士の情報体系はいっこうに整理されず、混成される場合の指揮系統も曖昧なままとなっていた。現実上組織的運航統制のとれた状態ではなく、斯様な状況下では独航船も多くならざるを得なかった。
苛烈化する海上護衛戦
米軍の通商破壊が本格化すると、海軍の対応不備がたちまち露見し船舶被害が急増した。
 米潜水艦隊の出足は芳しくなかったが、戦術の向上と欠陥が多かった魚雷の改善によって43年秋頃から戦果が急増。太平洋方面の在役数も100隻を超え、日本側の先を行くレ−ダ−の装備もあって護衛陣を翻弄した。実際、護衛艦1隻で船団の誘導、敵潜の制圧、遭難船の救難などの任務を全てこなすのは不可能なのである。しかし現状では訓練や戦術研究すら思うに任せず、護衛艦長は不満足な装備の艦を駆って過酷すぎる任務を自分だけでこなさねばならなかった。
 開戦前海軍が出した損失予想は年間ベ−ス80万トンだった。開戦決定に於ける重要な判断材料だったこの値は第一次大戦の英軍の実績を参考にしたものだったが、その船団制度は当時の日本より遥かに徹底しており、護衛も厳重だったのである。損失予測は42年末ごろには早くも崩れ、43年9月の時点で総保有量が550万トンをきり、民需船は必要値を2割下回っていた。
急がれる船腹拡充
船舶の新造計画は後手に回り、強引な改造タンカーの整備は損失拡大を招いた。
 開戦当時の日本国内年間造船能力は約60万トン程度で、そのままでは甘口の損失予想さえ下回るため船質簡易化と施設拡充の両面から是正が図られた。特に前者に於ては戦時標準船舶と呼ばれるデザインの簡易化が海軍の管轄で実施されたが、これらの措置が表立って効果を表わすには1年程度かかり、その就役は43年晩春、本格量産は同年暮れ以降となる。戦局全般から言えばこれで充分手遅れであった。
 油槽船不足は特に深刻で、めぼしい新造計画もなかったため、既存船や建造中の戦標船を改修して39隻20万トンを捻出した。これらの工事は多少の漏油も公認されるほどの応急的なもので、指定自体1942年末当時たまたま造船所で修理中だったものを流用しただけで、元々油槽船を持たない船主が運航ノウハウも無いままいきなり扱いを任される状態であった。結果として損失も異常に激しく、ミ船団開設までに17隻、終戦までに全船失われている。14隻が現在ミ船団への参加を確認されており、構成メンバ−の中堅と位置づけられる。
護衛制度の変革
制度改革と厳しい損失をきっかけとして、海上護衛戦は新たな段階に入る。
 43年11月、連合艦隊司令部と並立する組織として海上護衛総司令部が設立された。9月策定された絶対国防圏構想の1具体策で、ややジェスチュア的要素の見え隠れする内容ではあったが、組織的護衛の本格的な1歩がようやく踏み出された。
 この月船舶損失はついに30万トンを突破、翌年2月にはトラック空襲の被害を合わせ50万トンと目も眩む被害が出る。従来の護衛方式に限界を見た護衛総司令部は、翌月から稼行率の低下を忍んで船団数を減らし、1船団あたりの護衛を強化する策に出た。これを大船団主義と称し、海防艦の就役数増大もあって護衛の密度はある程度向上、結果思いの他覿面の効果が出た。4月の損失は13万トンまで下がったのである。
 もちろん米潜の実力が急に低下したわけではないし、日本側の対潜能力が突然強化されたわけでもない。予想される米潜の巻き返しを前に日本護衛艦の真価が問われる時期が訪れようとしていた。
ミ号船団開設
戦局の変化によって、北部ボルネオの重要性が高まった。
 大船団主義の導入とあわせ第1海上護衛隊では船団運航形態の全般的再検討も行われた。システム変更に絡んでこの時期から、船団命名法を発航地符号+仕向地符号+通し番号に変更(例:門司→高雄はモタ01〜)、それとともに特別編成船団の増加が実施された。43年7月より門司〜昭南間石油輸送船団ヒ号の運航が開始されていたが、更にこの4月新設されたのがミリ向け石油船団のミ号である。
 ヒ号船団は、高速を発揮できる優秀タンカ−を以て、昭南と内地側物動タ−ミナル門司の間を効率的に結ぶ目的で開設されたものだった。これに対し、従来局地船団を乗り継いだり独航したりしながら各個産油地を目指していた劣性能船を、今度の船団改編で一つにまとめて手近のミリへ送り込むようにしたのである。つまりミ号船団はヒ号とは陰と陽の関係にあり、始めから雑多な寄り合い所帯となる運命を背負って開設されたものだった。
なお特別編成船団の命名法は、固有符号1文字プラス内地発往航が奇数、仕向地発復航が偶数となる。
 この当時すでにボルネオ東岸航路は敵潜の跳梁のため廃止へと追い込まれつつあった。逼迫する戦局の中でミリの戦略的価値は急速に高まっていったのである。


2 初期のミ号船団
 新規開設されたミ号船団は、門司〜ミリ間の中速ないし低速船団で、往航マニラ(日本軍兵站線の要港)、復航高雄(台湾の主要商港で外地へ向う遠航船団の真水・燃料等補給拠点)に寄港、在泊期間は1昼夜といった規定がなされていたが、実際は往航、復航とも高雄とマニラの両方に寄港しており、在泊期間もかなりの幅があった。船団は両地で盛んに編成替えをしており、著しい場合は発航時と到着時で加入船が殆ど入れ代わっている場合もある。また既述のようにミリの港湾能力が極めて限られたものであるため、ミリから更に局地船団で昭南へ回航する例もかなり多い。そして、この流れに便乗する形で目的の違う船を便宜的に併合する措置が毎回のようにとられた。要するに本船団は現実上、各区間では通常の短距離船団と殆ど変わりない形で運航されたのである。充当される護衛艦隻数を見ても、被護衛側の1/3〜1/4となる割合はほぼ一般船団のそれであった(ヒ号は1/2程度)。
ミ02
その後のメインメンバーで開始されたミ号船団は、最初から大型船を失う幕開けとなる。
 ミ船団の第1航は、マニラ始発で編成のミ02がミリ経由内地向けという形態をとられたとされている。新航路体勢への過渡的措置だったのだろうが、編成時点の加入船は開設目的を忠実に反映して全て油槽船であった。
 4月22日朝マニラ発、出来るだけ危険な夜間の航行を避ける方針を取り、以後1〜2日おきに各地に寄港、28日昼過ぎミリに安着した。
 本来のミ02である復航は、昭南経由と思われる一般商船を加え往航の倍の加入数となった。護衛陣もヒ船団から回ってきた2隻が加わって5月4日午前ミリを発った。
 往航同様の航法で同日イムルアン湾泊、5日は一気にバラバク海峡を抜けるべく北上した。しかし6日朝、海峡上で米潜クレヴァルの雷撃を受け、加入船中最大の日新丸が沈没。本船は捕鯨母船で、漁閑期や戦時中は油槽船として用いられた。
 護衛艦はただちに反撃、船団はその後攻撃を受けず、7日パラワン島セントポ−ル湾泊、10日マニラに入った。同地で6隻除外、1隻加入、護衛に2隻を加えて13日発、15日から更に護衛1隻が付き翌日高雄到着。商船3と護衛艦2を残し17日発、翌日基隆出港の3隻と駆逐艦1を加えた後、20日泗礁山(銭唐江口)に寄港、23日夕方門司に到着した。
 加入艦船のうち門司まで来たものは、大多数がその後のミ船団に加わっている。
ミ03
緊張のルソン海峡を突破するも、マニラ手前で護衛艦と貨物船が撃沈。
 内地発のミ船団第1航であるミ03は、5月1日門司を出航。7日高雄入港、編成替えで商船が17隻となり、翌日出航し南下したものと思われる。
 折りしもルソン海峡では、4月末から竹(ニューギニア増援)、ヒ58、ヒ59、ヒ61、ミ03と重要船団が相次いで通過する大船団主義最初の山場を迎えており、4日夜に鉱石船団のテ04が6隻中5隻を撃沈される惨事が起こったため海峡にはいやがうえにも緊張が走っていた。本船団においても他船団から護衛を増援したが、どうやらマニラ湾口までたどり着いた10日朝、米潜コッドの待ち伏せにあい駆逐艦刈萱と貨物船昌平丸が沈没した。船団は14日頃マニラ発、19日ミリ着。
ミ04
少数船舶で内地へ急行?
 ミ03の復航。航程は5月24日頃ミリ発、29日マニラ着31日発、高雄寄港を省いて6月8日門司に着いたものと推定される。
 本航路では基幹となる油槽船の性能が低い分、前述の通り殆ど常時一般商船を便宜同行させていたため、少数船で一気に走るヒ船団的運航法をとった例は極めて珍しい。
ミ05
各種船舶を集約し、本格的大船団運航期に入る。
 6月2日門司を出発したミ05は、当初加入船33隻、延べ加入隻数49隻という当時最大級の大船団となった。護衛艦も出港時で8隻おり、大船団主義を象徴する陣容であったが、指摘しておかねばならないのは航空機の援護が全く無かったことであろう。
 加入船4隻と護衛2隻はミ02より参加。その他では南方の中積船として設計された2TM型が続々竣工して本船団で南方へ向かう様子がわかる。
 船団は2日朝門司、3日伊万里発、8日基隆に入った。翌日出港、11日高雄沖で改編し商船7と護衛2隻が加入、16隻分離。以後南下を続けたが、13日午後油槽船まりふ丸に魚雷1本が命中。貨物船三池山丸の曳航で15日夕方マニラに入った。
 一方、同船より一足早くマニラに着いた船団は再度改編され、商船は10隻加入、6隻除外の28隻、護衛5隻で18日マニラ発、23日ミリ港外に到着した。
 この後は大多数の艦船がミシ03で昭南へ向かっている。
ミ07
規模は大きいが一般貨物船が主体。前航からきっちり9日後のダイヤを終始維持。
 以下発航日順。ミ03と05の間は1カ月開いたが、本船団は先発から9日後の6月11日門司発。やはり26隻で始まる大船団となった。
 油槽船光栄丸が故障で早々と脱落した後15日奄美大島海峡泊、18日高雄着。但し2隻は護衛1隻とともに前日分離の上基隆着。数時間後には出港したが、油槽船太栄丸が故障して反転。23日マニラに入って再び改編が行われたようだが、護衛は2隻のみとなったので大半はマニラ止であろう。27日発、7月2日ミリ着。
 護衛の両艦は引き続き昭南行きの接続船団ミシ04に回り、復航ミ08の護衛は入れ違いで入港してきたシミ05から出した。
ミ09
前航とほとんど同じ構成で所要日数も同じ。順調。
 先発より12日後の6月23日門司発。29日高雄着、翌日発。7月3日マニラ着、18隻が外れ、大半は再び北航した模様。残りは特設砲艦2隻のみの護衛で7日出発し、14日夕方無事ミリに到着した。
ミ06
正規のパターンに則って運航。順調。
 ミ05の復航はミリ着4日後の6月27日午後遅く同地を出た。内容はミ05から5隻とシミ04で24日到着の8隻からなる。同名の2隻が含まれるので注意。
 7月2日マニラへ入港の上半数が入れ代わったが、4日の出港時にはまた13隻となった。10日高雄着、2隻が除外、護衛2隻が加入し12日出発、17日午後門司に着いた。


3 風雲急のフィリピンとミ号船団
 7月7日、サイパンが陥落。これによって絶対国防圏構想は早くも潰え、その責任を問われた東条内閣はついに倒れた。しかし戦争指導部は更に決戦を企図してフィリピンの防備強化を決定、またも民需船を増徴して比島方面の軍需輸送にあてた。逼迫した資源輸送を補うため軍は軍需船の資源還送加担を認めるが、一方では民需船籍のまま軍用品輸送にあたる臨時配当船が急増した。その裏には8月19日最高戦争指導会議が決定した「決戦の結果如何に拘らず戦争は継続する」という極めて矛盾した決定があったのである。
 比島方面を中心として海上交通は極めて複雑化を呈する。決戦用輸送とその後の持久戦用資源還送、相容れない(相並ぶはずのない)二つの要素を突きつけられたうえ、米軍が更に潜水艦をバシ−海峡やマニラ近辺に集めたため日本船の被害が急増していく。
 この様な背景のもとで、ミ船団の航路も次第に危険度を増していきつつあった。
ミ08
南西諸島で雷撃を受け、久しぶりに損失を出す。
 ミ07の復航。同船団から3隻の他、シミ05で7月8日到着した船を主体として構成され10日午後出発した。このうち油槽船武津丸は船団がキマニス湾に寄港中ミリへ反転(故障?)。船団は12日出港、20日マニラ着。改編の上23日出発した。出入りの一般商船は殆ど陸軍船で、これから南東方面へ赴くもの、輸送を終えて内地へ回航するものが日程や護衛兵力の都合で本船団と組み合わされている様子が窺われる。
 27日高雄着、再び改編して30日出港。台湾沖で敵潜と接触、待避のため8月1日基隆に入港、4日出港し南西諸島沿岸を北上したが、9日徳之島北西10キロで米潜バ−ベルが雷撃、貨物船の八義丸と澎湖丸が撃沈された。船団は全速退避、同日古仁屋に入港。11日出港し、13日夜門司に到着した。
ミ11
比島向け軍隊輸送船団を編入したが、ルソン海峡で大損害。
 サイパン陥落直後の7月12日午後発。油槽船は概ね通常のパターンだが、これに比島増援の任を帯びた陸軍船などが同行。21日高雄到着後18隻船団となる。
 一方、護衛陣では門司から参加したと思われる5隻のうち3隻が今回が初陣らしく、船団の重要性を鑑みてルソン海峡突破には戦力不充分として他からの増援を待つこととなった。そして入港してきたユタ09、マモ01、ミ08から各1隻を引き抜いて29日出港。行く手では3日前ヒ68が3隻を食われており、本船団の緊張も否応無く高まったであろう。だがそんな矢先、貨物船栄久丸が早々と故障脱落してしまう。
 30日夜、冷蔵船第16播州丸(油槽船はりま丸?)が舵故障を起こし貨物船万光丸と接触する事故が発生。このあと敵潜接近が探知されるようになり、31日深夜から未明にかけて、ついに米潜パ−チュとスチ−ルヘッドが船団を捕えた。万光丸、油槽船光栄丸、貨客船吉野丸、扶桑丸は沈没。油槽船第1小倉丸は大破したが、なんとかマニラに到着。貨物船だかあ丸は航行不能となって朝まで漂流したが、第28号海防艦、のち船団の貨物船福寿丸に曳航されて6日サンフェルナンドにたどり着いた。護衛強化の労は水泡に帰し、比島への増援兵力は多大な損失を被ったのである。
 難を免れた各船は8月3日マニラに入港。船団はルソン海峡の対潜掃討などのため護衛のうち4隻を残し、商船5隻で7日出発、以後は無事航行を続け12日夕方ミリに至った。
ミ10
ミ11と入れ違いにルソン海峡を北上。1隻撃沈。
 護衛艦はミ09の2隻が楡林(海南島)へ回航したため、かわってミ07からミシ04〜シミ06で戻ってきた駆逐艦朝風らが本船団を担当。マニラで改編を行った船団は15隻編成となり、7月25日出発。1日遅れでヒ68の後を追うミ10も28日、同船団を攻撃したクレヴァルによって油槽船白馬山丸がやられてしまう。
 幸いミ10の損失は本船のみにとどまり、高雄到着後ほぼ同時に入港したミ13に朝風らを譲って門司へ向かった。
ミ13
マニラ湾沖で入出港時とも敵と接触。商船と護衛艦に損失。
 先発から14日後の7月24日六連発、26日伊万里湾を出た。護衛が10隻と多いが、捕鯨船やトロール漁船などを徴用した小型船が半数を占める。
 高雄に入港(8月1〜3日?)した船団は一部改編、米潜が跳梁するルソン海峡の区間のみの護衛を特別に担当する4隻などの護衛で、4日朝出発した。油槽船瑞洋丸は次に述べるミ12と重複するので、どちらかが別船の誤りであろう。今回はルソン海峡を無事通過。7日朝マニラの手前で敵潜発見、制圧により船団の商船に被害はなかったが、戦闘中海防艦草垣がギタロ−の雷撃を受け沈没。
 8日マニラに入った船団は再び改編を実施。商船は6隻除外、1隻加入、護衛陣は大半が外れ、新たに駆潜艇2隻を加え4隻体制で11日出港した。
 12日朝ミンドロ島西岸で神鳳丸が被雷、帝坤丸が敵潜へ突進したがあえなく返り討ちにあった。雷撃したのはパファ−とブル−フィッシュ。護衛陣は二手に分かれて制圧と船団誘導を実施、更に小型商船2隻が被害船の曳航に向かったが、損傷船は沈没してしまった。
 パルアン湾に退避していた船団は制圧終了後の14日出発し、18日夕方ミリに到着した。荷役に入った3隻をのぞく全船が翌日ミシ07として昭南へ回航。
ミ12
ミリ〜マニラ間に敵潜が集結。猛攻の前に5隻を失い、船団解散か?
 加入船は油槽船武豊丸以外、全船8月10日昭南発のシミ08で北航してきたものと推定。16日朝ミリ発。翌日1隻分離、キマニス湾付近でミ13とすれ違ったとき、マニラから加わった2隻を引き継いだ。
 しかし18日昼過ぎ、パラワン島南西岸で貨物船南星丸が被雷沈没した。雷撃したのはレイで、ミリ入港直前のシミ08を攻撃して1隻撃沈後、船団に食いつき続けたもの。本船団も20日夕方ミンドロ島パルアン湾に避泊。翌朝抜錨、前路啓開の4艦が爆雷戦を実施したが、武豊丸がレイの魚雷1本を受け炎上沈没。油槽船誠心丸が反撃し撃沈確実を報じたが、米側に該当記録はないようだ。更に周辺の敵潜も集結しており、ハッドが貨物船のるほうく丸、金龍丸を、ギタロ−が貨物船宇賀丸を撃沈した。
 マニラ以後の参加各艦船の足取りはばらばらで、解団された可能性がかなりあり、門司まで着いたとしても内容は一変していたことになる。
ミ15
台湾南方で精鋭ウルフパックと交戦。護衛艦も返り討ちに。
 先発から一月近く開いて8月19日朝発。25日高雄着後改編され、当初便宜的に加入していた連合艦隊の駆逐艦の代りにモタ23から回ってきた海防艦が入って30日出港した。商船も民需籍の一般貨物船が全て外れ中小油槽船などが加入。
 翌日深夜、バシ−海峡の中央で油槽船千代田丸が米潜クイ−ンフィッシュの雷撃を受け沈没。その後油槽船力行丸も被雷、漂流のあと付近に座礁。護衛陣が制圧に入った所、朝方敷設艦白鷹の近くにシ−ライオンが浮上、同艦との間で砲戦が始まるが、白鷹のほうが撃沈されてしまう。同艦は雷撃でとどめを刺され昼前沈没したが、その間貨物船大国丸が沈没。クイ−ンフィッシュとバ−ブの戦果。この敵潜群は、撃沈トン数第3位のバーブを筆頭とする精鋭ウルフパックで、シーライオンは戦艦金剛の、クイーンフィッシュは阿波丸の撃沈で知られる。
 船団は反転、枋寮沖まで退避し、9月2日抜錨したが、3日には再び状況が悪化。随時爆雷投下を続け5日北サンフェルナンドへ入港。6日出港後は更に接岸しつつ南下。7日無事マニラに着いたが、3日後には次航ミ17もマニラに到着し、両船団はここで統合されることとなったようである。
ミ14
やはり台湾南方で接敵。常連タンカーも沈没。
 8月29日発。9月5日マニラ着、改編し4隻が入れ代わったが、常連の油槽船4隻は残り、9日マニラ発。北サンフェルナンド、アパリを経てバブヤン諸島ムサ湾に至ったところで掃海艇2隻が加入、更に16日バタン島バスコ湾出発時から航空機も来着した。しかし昼過ぎ、鵞鑾鼻南方90キロで徳島丸が米潜ピキュ−ダの魚雷を受け沈没。同船爆発の煽りで前方の第2小倉丸は機関室に亀裂を発生。機関を止めて応急修理の上2時間後に船団を追い始めたが、まもなくレッドフィッシュの雷撃で沈没した。
 船団は翌17日高雄入港。商船5隻に護衛2隻で20日発、2隻を基隆へ向かわせて29日1930、3隻のみで門司に到着した。
ミ17
タンカー船団とは名ばかりの寄り合い所帯であわただしく運航。マニラ大空襲の間隙で奇跡的に安着。
 本船団は、先発からわずか8日後の8月27日に門司を出ていた。判明している限り油槽船も2隻だけで、大多数の南航船がマニラを目指す状況ではミ号船団も単なるモタ〜タマ船団の複合体プラスアルファとして扱われていた状況がわかる。最早芋蔓式に準備のできたものから送り出す状態である。
 高雄港が輻輳していたためか9月1日馬公入港。3隻分離1隻加入。護衛も2隻追加し4日出発した。ルソン海峡を無事通過したが、行く手に敵潜潜伏との報を受け6日アパリに漂泊。再び出発したが、タマ26の護衛増援のため3隻が分派。残る護衛陣は前路警戒艦を出して敵制圧に努めたが、状況不良のため結局以後昼間行動のみとし、ラオアグ、北サンフェルナンド、マシンロック泊、10日夜マニラに入港した。後発のタマ25も3隻を失っている。
船団は再び改編され11隻分離8隻加入。ミ15でマニラまで来た油槽船第5雲海丸などが加入した可能性が高い。但しミ船団開設で跡絶えていたマミ船団が8月から月1本程度の割で再開されており、これに加わったかも知れない。護衛は2隻のみとなった。
 ところが、ここで本船団を取り巻く事情が急転回を見せる。9月12日からセブ島一帯が米機動部隊の艦上機によって大空襲を受けたのである。レイテ侵攻の下準備の始まりだが、マニラでも空襲必至とにわかに色めき立ち、ミ17も急遽14日出港、とりあえず北へ逃れ、翌日にはマシンロックまで戻った。一旦差し迫った危機はないものと判断され、船団は18日マニラに帰着。しかし間もなく敵機動部隊接近の報が入り、結局20日朝同地を発ってミリへの途についた。
 その翌日から2日にわたるマニラ一帯の大空襲が実施され、船舶がひしめくマニラが蹂躙されたのはもちろん、周辺港湾や船団にも大きな被害が出る。しかし、このような中でミ17は奇跡的に全く敵機に攻撃されなかった。同船団は安全のため今回も接岸しての昼間航法をとり、中途4箇所の寄航を経てを経て25日夕刻、ついに1隻の損失も出さずミリに到着したのだった。
 加入船の多くは、その後ミシ10?で昭南へ向かったものと思われる。
ミ16
状況混乱の中で幻となった船団。加入予定船は南シナ海をさまよい、壊滅的打撃を受ける。
 現在のところこの船団名を明記した資料はないが、戦史叢書の統計には存在する。編成番号が不自然なミマ11がこれに該当すると思われる。
 ミ15の消滅のため通常のパターンに従ってミ15と接続するはずだったシミ10は相手を失ってしまい、とりあえず便宜的にミマ11としてマニラへ向かったが、大空襲のため結局内地向けの各船はマニラ寄航を止め高雄直航に切り替えた。しかしこの間終始敵潜に付きまとわれて5隻を撃沈され、北サンフェルナンドに逃げ込んだ上後続船団のマタ28に吸収されたが、その後も米機動部隊の動静に振り回されて分裂しながら南支那海をさまよった挙げ句、更に4隻を失っている。
ミ18
米軍のフィリピン進攻近し。雷撃で3隻を失い、空襲の脅威にもさらされ船団はついに解散。
 本船団の加入船は油槽船第5雲海丸以外、いずれも9月22日昭南を出て26日ミリに着いたシミ11?に加入していたものと思われ、これをミ17の護衛艦2隻が護衛する形をとった。30日朝発、2日深夜ゼッセルトン北方で3隻が米潜ハンマ−ヘッドの雷撃を受け、日和丸、日金丸、国星丸が沈没。いずれも鉱石船で、接岸航行中沖合から攻撃されたもの。
 船団はただちにガヤ湾へ退避、以後本船団も昼間航行に転換。9日出発時から駆逐艦春風が加わり10日夜マニラ入港まで漕ぎ着けた。だが、この10月初旬に至っても米機動部隊は比島東方洋上を遊弋、状況不良の中で11日にもマニラ空襲の気配濃厚の報が流れたため、船団は夜遅く抜錨、再び南方目指して避難の途についた。
 米第38機動部隊はこの日ルソン島北岸を空襲しているが、その次に狙ったのはマニラではなく台湾だった。これに対し大本営は付近の航空兵力をすべて投入、15日までに20隻近くの米空母を撃沈破と判断し、米機動部隊壊滅を国民に宣言する。だが、実際には米側に沈没は1隻もなく、対する日本側は参加750機中500機を失っていた。
 このような混乱の中で、13日パラワン島バキット湾まで達していたミ18は解散される。以後各船は別命によって回航されることとなったが、基本的には米空母が台湾方面にあることがはっきりしたためかマニラに帰着しているようだ。
 だが17日、ついに米軍はレイテ沖のスルアン島へ上陸を開始、その侵攻正面がフィリピンであることが疑いのない事実となった。
ミ19
新参の改造タンカーを加えるも、出航翌日にまさかの損失。ダイヤが大幅に遅れ、後続船団と合流。
 先発から約2週間後の9月9日正午門司発。
 2TA型油槽船の1番船、大明丸が加わった。戦時標準貨物船の主力2A型のうち、34隻が油槽船への転用を指定され2TA型と称した。つまり従来の戦標船改修型と同一コンセプトのもので、性格上ミ船団専用として開発された形式と捉えられる。ただ残念ながら実際の価値は、輸送力強化より損失の穴埋めもどうかといったところではあった。
 ミ19は意外にも出港翌日早くも犠牲者を出す。昼過ぎ巨文島南東で千早丸が米潜サンフィッシュの魚雷を受け、船尾から沈下。水深が浅かったためすぐには全没しなかったが、12日の荒天で沈没した。船団は珍島沖に集結した後、護衛艦と来着の哨戒機で制圧を行っていたが、この荒天で敵を巻き、17日5隻を基隆へ向かわせた後、翌18日高雄着。在泊中ミ21が入港したためこれと統合される。
ミ21→ミ19
ベテラン油槽船中心の再編ミ19は、敵の待つフィリピンへ。続出する被害にも屈せず、意地でミリにたどり着く。
 ミ19から更に2週間後の9月23日出発したが、航海が順調だったのと、ミ19が比島方面大空襲の余波で長期間高雄にとどまっていたため、同船団が滞在中の29日に同地着。ここでミ21は解散され、以後はミ19に統一して運航されることとなる。護衛艦もほとんど入れ代わってヒ72から分離した海防艦3隻を基幹とする構成となった。
 米機動部隊の比島方面大空襲が一段落したのを受けて、停滞していた輸送船団は一挙にマニラを目指し動き出した。タマ27に続いてミ19が30日正午発、翌日にはタマ28と29が相次いで高雄を出港。同日門司からはヒ77も出発している。だが各船団は待ち構えていた米潜群に次々と襲いかかられ、タマ27は1隻、タマ28、29は各2隻、ヒ77は商船2隻と護衛艦1隻を失った。しかし出航後やはり接岸航法をとっていたミ19は、アパリ、ラポック、北サンフェルナンド泊を経て、6日何とか損失なくマニラに到着した。
 ここで再び2隻づつの入れ替えがあり、護衛2隻を追加して8日朝出港。危険なマニラ湾南方〜ミンドロ島付近を避けて大きく西方へ膨らむ航路を取ったが、結局米潜に捕捉されてしまった。9日夕方、油槽船徳和丸とさんるいす丸が被雷。徳和丸はさらに魚雷を撃ち込まれて沈没。ホ−クビルとベキュナの協同戦果。鉱石船大善丸も雷撃を受けたが回避した。さんるいす丸は当面沈没の恐れなく、油槽船春天丸、護衛艦2隻と共に先行しプエルトプリンセサに入港。
 残る船団はパラワン島へ直航し、10日夜パグダナン湾入泊の上翌未明出発。以後接岸航路をとるが、12日も敵潜発見によりバラバク島ダラワン湾に避泊、護衛陣が敵潜を抑え込んで翌朝出港。ボルネオ島に取り付いたが、新手の米潜デイスが出現。14日に入り油槽船日鉄丸と永享丸が被雷、直後に大善丸にも魚雷が命中。日鉄丸はガヤ島沖に沈んだが、永享丸と大善丸は踏みとどまり、キマニス湾で待っていた船団は両者の到着を待って昼前に出発した。だが永享丸は転覆しそうになり、同夜ブルネイに到着したところでついに続航を断念。しかし船団は15日ラビュアン泊、16日ビクトリア泊、そして翌日夕方漸くミリにたどり着いた。
 油槽船さんぢゑご丸、春天丸、大修丸が荷役、大善丸が修理に入る一方、鉱石船辰鳩丸ら3隻はミシ11と思われる船団で昭南へ向かったらしく、22日には応急修理の済んださんるいす丸も無事到着、30日発のミシ12で昭南へ向かった。大善丸も翌年2月修理を終えて昭南へ向かったが、20日被雷沈没した。


4 ミ号船団の終末
 さて、ミ19のミリ到着はちょうど米軍スルアン島上陸の日にあたるが、同日連合艦隊もついに捷1号作戦を発動、今や健在が明らかとなった米機動部隊を前に、まったく無謀なレイテ在泊艦船への殴り込みを企図する。
 被雷しながらようやくブルネイまでたどりついた永享丸は、戦艦大和、武蔵を中心とする艦隊が20日に入港するためという理由で湾内での入泊修理を拒否され、湾外で自ら座洲しなければならなかったのである。2TA型に早くも損失である。燃料不足のためわざわざリンガに待機していた第2艦隊がこの期に及んでなおタンカーを粗末にする有様は、この戦争を引き起こした軍部の独善思想の一つの象徴とも言えよう。いずれにしても、台湾沖航空戦で自らを支援すべき航空兵力を失っていた水上部隊は八方破れの作戦も何ら戦果を挙げ得ぬまま敗退、連合艦隊は壊滅した。
 比島では敵制空権下の悲壮な逆上陸作戦のため多数の艦船が撃沈されるなど、戦況は泥沼の様相を呈していた。
 このような事態にあって、ミ船団は従来のマニラ寄港を中止して聖雀(サンジャック、サイゴン外港)経由でミリへ向かう航路変更によってその命脈を保つこととされた。だがレイテ侵攻に先立つ9月15日、ハルマヘラ島の北モロタイ島に米軍が上陸して飛行場を建設しており、すでにミリもその脅威に晒されつつあった。
ミ23
戦標改造タンカー本格投入。台湾海峡で奇襲をかけた米潜は自損事故で沈没してしまう。行先変更。
 本船団は10月18日、先発から3週間以上の間をおいて佐世保から出発。加入油槽船は松本丸以外全て戦標船となり、特に2TA型は造船所からミリへ直航と言わんばかりの投入ぶりを示す。但し第2勇山丸はミ25と記録が重複する。
 ミ23は一旦北方に大きく迂回し、20日朝鮮羅老湾、22日舟山列島沖を経て大陸岸を南下した。24日、台湾海峡入口で3隻が護衛2隻と共に分離、高雄へ向かう。船団は米潜の危険を避けて深夜の台湾海峡突破を図るが、この時台湾海峡の中央にいるはずのない米潜が潜んでいたのである。
 今回の出撃で特別に許可をとって単独台湾海峡へ進入していたタングは、浮上中ミ23をレ−ダ−で探知、まもなく護衛側もレーダー探知して船団を誘導するが、制圧にもたつき海峡中央でタングの攻撃を許す。油槽船江原丸が相次いで魚雷2本を受け沈没、敵方へ突進していった松本丸も1本命中し航行不能となった。ところがこのとき、タングは最後に発射した1本の魚雷が突然回頭して自艦に命中するという珍しい事故(他にも例がある)によって沈没してしまった。
 松本丸は第2勇山丸が曳航、無事平海湾に擱座させたが、結局26日横転沈没した。
 一方、その26日廈門港外に仮泊した船団は翌朝馬公着、2隻分離1隻加入。29日出港、南下したが30、31日両日、ミ船団史上初めて空襲を受ける。この時は無事回避したが、このように比島を遠ざかったとて今度は中国方面の敵機をも相手にせねばならないのであった。船団は11月4日無事聖雀着。だが船団の行き先はここで昭南に変更され、9日出港、12日正午入港した。参加各船は当地で積取をして再び北上するか、自ら石油産地に出向くかしている。
ミ20
小所帯にやせ細った復航船団にも容赦ない米潜の雷撃。最古参タンカーが奇跡の生還。
 11月1日正午発。荷役待ちの間にミ19の護衛は全て他に転用され、大明丸らマミ12?を護衛して南下してきたと思われる2隻が本船団を担当した。
 わずか4隻で出発したミ20では、3日深夜ミリ〜聖雀の中間地点で大明丸が米潜ガ−ナ−ドの雷撃によって失われた。船団は全速で5日聖雀に到着。ここで商船、護衛艦各1を加え10日出港、ナトラン仮泊を経て15日クサンディ湾発。一路台湾海峡を目指したが、17日未明に西沙諸島付近で米潜ガンネルの攻撃を受け、春天丸と護衛の水雷艇鵯が被雷沈没。このため船団は再び大陸岸へ直行、20日未明海南島東方の上川島に到達。その夜は万山島で仮泊、翌朝出港し夕刻香港に入港した。船団はここで2日間待機の上出港、25日高雄仮泊、無事内地へたどり着くことができた。
 生還したさんぢゑご丸は、戦前からの外航油槽船で終戦時ただ1隻の生き残りとなった。
ミ25
迂回航路もむなしく2隻撃沈。たった2隻で到着した最後のミリ入港便。
 11月3日門司発、先発から半月後となる。護衛には全て海防艦がついたが、前航同様うち4隻が新造で対潜訓練部隊での講習錬成を終えたばかりであったろうと思われる。結局終戦時までに約170隻完成させた海防艦も、実際は多くが今回のように、海上交通路が終末期に向かう頃から実戦参加できるようになったのである。
 例の接岸コ−スで南下。8日基隆沖で8隻分離、1隻が故障で馬公へ回航、13隻が南下を続ける。15日深夜、カムラン湾南方パダラン岬沖の浅海面でよもやの雷撃を受けた。鉱石船日永丸と第2勇山丸が被雷沈没。護衛は夜通し制圧を続け、朝から救助作業を始めた。
 翌16日朝聖雀入港。門司出港時からこれ以降のコ−スは当地で判断することとされていたというが、結局暁心丸と愛宕丸の油槽船2隻のみがミリへ向かうことになり、22日海防艦3隻とともに出港、26日昼過ぎ到着した。だがミリはすでに度重なる空襲を受けており、荷役中の愛宕丸は28日夜の空襲により撃沈された。
ミ27
東シナ海で米潜と死闘。損失や故障脱落で加入船が激減し、高雄で解散。
 ミ船団の運航はなおも続けられていた。ミ27は11月15日夕方出港。ミ25からは12日後であった。だが油槽船延慶丸が出港時早速舵故障して不参加とされ、加入船中最大の油槽船極運丸も翌日機関故障で脱落。ミ船団は故障船の裏街道でもあったが、これまでミ船団から脱落した船は例外なく戦標船である。船団は早くも8隻に減ったが、17日夜済州島西方で攻撃を受けることとなる。
 貨物船盛祥丸が米潜サンフィッシュの魚雷を受け航行不能、間もなく貨物船江戸川丸も被雷炎上。各船の防御砲火で浮上攻撃の米潜は一時姿をくらまし、船団は全速で集合地の舟山列島泗礁山を目指したが、2隻目の米潜ピ−トが出現し油槽船逢坂山丸が被雷沈没。油槽船延喜丸が果敢に反撃して撃沈確実を報じたが、該当する損失記録はない。日付が変わって再びサンフィッシュが出現、江戸川丸に止めを刺した後盛祥丸に迫ってきた。反撃した同船も弾薬が尽き沈黙したところを雷撃され沈没。更に江戸川丸の救助で逃げ遅れた鎮海丸もピ−トの雷撃を喫し沈没した。第61号海防艦と第101号掃海艇が漂流者の救助を続けたが、昼までに終了し前者は上海へ回航、後者は船団に復帰した。
 貨物船杭州丸は珍島方面へ避退し、泗礁山に入ったのは3隻だけだった。油槽船阿波川丸が続航を取り止めたため、結局船団は延喜丸と貨物船松浦丸の2隻のみとなって26日高雄にたどり着き、当地で解団となった。松浦丸は内地へ帰り、延喜丸はタサ18を経て昭南へ向かった。
ミ26
最後の復航ミ号船団。資料も乏しく詳細不明の寂しい末路。
 戦史叢書の運航表によると、ミ26と考えられる船団が存在する。おそらくミ25でミリに入った各艦船のうち、当地で沈んだ愛宕丸以外を基幹としていたものと思われるが、暁心丸は聖雀から昭南へ向かい、12月19日マレ−半島で荒天下の座礁事故により失われたためミ26のその後は知るよすがもない。
 ただ一つ言えること、それは本船団が復航ミ船団の最後となったことである。
ミ29
ようやく集めた15隻も、たった1度の雷撃で支離滅裂に。惨め過ぎる幕引き。
 ミ29は先発から半月後の11月30日出発したが、この時期にして15隻という大船団を編成。しかしミ27から除外された延慶丸も入れると、今までミ船団に加入したことのある船が1隻もなくなっていた点が、逼迫した船舶事情を暗示しているようである。今回も2TA型5隻が加入。結局本型は、本船団運航期間中の竣工船30隻中22隻までもが本船団に編入されたことになる。護衛も海防艦4隻が先月完成したばかりの新米であった。
 南西諸島コ−スで南下したが、やはり12月2日未明、敵潜シ−デヴィルの攻撃を受ける。屋久島西方沖で貨客船はわい丸に魚雷1本命中、爆薬とガソリンに引火して壮絶な大爆発を起こした。船団内最優秀船の凄惨な最期で船団は一気に浮き足立ち、収拾困難となった。貨物船伯刺西爾丸は自船が投下した爆雷の炸裂で損傷、基隆に回航する。油槽船安芸川丸にも2本命中、浸水で船体切断し沈没。
貨物船和浦丸は高雄へ直行、3日前後には入港したらしい。これを追っていた同くらいど丸と十一星丸には護衛のうち海防艦生名が追いついて6日入港したが、その間空襲を受け生名が小破した。油槽船神祐丸は逆に内地へ反転。貨物船江の浦丸は大陸方面へ避難。残る6隻は奄美大島古仁屋へ退避、数日後出発し高雄へ向かったが、同地が空襲を受けているとの報に接し基隆避泊に変更。しかし間もなく空襲警報解除となり、再び高雄へ向かうこととなった。ところが各船への伝達がうまく行かず、またも船団は分裂、ほとんど基隆に入ってしまい高雄着は油槽船延長丸1隻のみだったのである。
 こうしてばらばらになってしまったミ29は、高雄で解散となった。たった1隻の敵潜によって完膚無きまでにかき回された、惨めすぎる結末だった。本船団の記録は大戦末期に於ける商船、艦艇双方の顕著な技量低下を象徴するものといわざるを得ない。そしてミ船団の運航も、これを以ってその幕を閉じたのである。
 比島がすでに絶望的戦況となった1944年末、石油積出港としてのミリはその機能、戦略的価値とも失われた。
ミ号船団の忘れ形見
ヒ号の一部となって使命を果たそうとしたミ号の忘れ形見が、大船団主義の終末を告げる象徴的存在に。
 ミ29の残存船をはじめ使える低性能油槽船は全てヒ85に組み入れられ、12月27日高雄を出て一路昭南を目指した。従来優秀船ばかりで編成されていたヒ船団が、はじめて低性能船で編成されたわけである。本来はミ31となっていたであろうヒ85は、低性能船を扱うミ船団の消滅を受けて編成された同船団の形見であり、資源航路逼迫の象徴的存在だったということもできよう。故障脱落の1隻以外1月4日無事聖雀にたどり着き、各船は小船団を組んで逐次昭南へ向かった。護衛陣は折り返し昭南から来た10隻を集め、ヒ86を編成する。さんるいす丸以下6隻はミ船団で下ったものだった。
 本来ミ32となるべき船団ヒ86は1月9日出港、仏印沖で運命の1月12日を迎える。この日初めて南支那海に突入した米機動部隊は周辺海域の大空襲を実施、日本商船隊はこの日1日で35隻13万トン余りを失う致命的打撃を被り、前年春来続けてきた大船団主義もここに完全にその命運を断ち切られる。最後の大船団ヒ86も、海防艦3隻を残し全滅した。
 以後、南号作戦の名でヒ船団は昭南に残されたあらゆる油槽船を動員して数隻づつの小船団として細々運航を続け、3月27日門司に到着したヒ96の光島丸を最後に南方からの石油還送は一切跡絶えた。数少ない帰還船の中に、ミ号参加船である延慶丸、延長丸、神祐丸の名があった。

おわりに
悲劇の記憶を、私達は如何にして糧にすべきか。
 「ミ号」船団は、運航期間が短く編成数も「ヒ号」の3割方にとどまっているが、海上護衛戦史の上ではちょうど「大船団主義」採用期間に運航された代表的航路と捉え得るものとして意義深い。
 「ヒ号」船団の裏街道として小型船や低性能船を抱え、船団速力8ノット前後と苦しい戦いがそこにあった。だが加入船は粛々と任務に従い、時として敢然と敵に立ち向かった。護衛艦も数々のハンデを背負いながら奮闘し続けた。ミ船団の加入船損失率はヒ船団より低かったのである。
 今回のように戦時海運の実態に目を向けることは、かの15年戦争が如何に無謀で不毛な戦いであったかを理解する一歩となるであろう。海外との通商貿易の重要性を殆ど顧みなかった軍部の姿勢はまさに鎖国思想そのものであり、時代後れであった。だが15年戦争という一つの結果が開国以来日本の歩んだ道の果てであった以上、全ての責任を軍部になすりつけて済ますことは危険である。
 単に軍事問題のみをタブー視するのは、必ずしも本質を突いていないということだ。武器をとらない平和国家たらんとすることは掲げるべき理想として絶対必要だが、平和思想と軍事的無関心とは全く別問題なのである。


ミ号船団運航表

加入艦船隻数はそれぞれの出港時を示す。油槽船数は判明および推定分。
損害のうち、×は沈没、は損傷を示し、印ひとつに付き1隻をあらわす。

往航 発航地・発航日 損害 寄港地1 損害 寄港地2 損害 仕向地・到着日
仕向地・到着日 損害 寄港地2 損害 寄港地1 損害 発航地・発航日 復航
前期 門司 東シナ海東部 台湾 ルソン海峡〜マニラ マニラ 南シナ海東部 ミリ
後期 門司 東シナ海西部 台湾 ルソン海峡〜聖雀 聖雀 南シナ海中部 ミリ(昭南)
02往 マニラ4/22 ミリ4/28
商船 9(9)
護衛
門司5/23 高雄 マニラ ミリ5/4 02
10(7) 10(9) × 16(11) 商船
護衛
03 門司5/1 高雄 マニラ ミリ5/19
商船 20?(5) 17(5) × 5?(5)
護衛 3? × 2?
門司6/8? マニラ ミリ5/24? 04
5?(3) 5?(3) 商船
2? 2? 護衛
05 門司6/2 高雄 マニラ ミリ6/23
商船 33(14) 37(14) 28(13)
護衛 10
門司7/17 高雄 マニラ ミリ6/27 06
11(7) 13(7) 13(12) 商船
護衛
07 門司6/11 高雄 マニラ ミリ7/2
商船 26(5) 23(4) ?(3)
護衛
門司8/13 高雄 マニラ ミリ7/10 08
×× 16(8) 12(7) 16(9) 商船
護衛
09 門司6/23 高雄 マニラ ミリ7/14
商船 26(4) 26(4) 8(4)
護衛
門司8/10? 高雄 マニラ ミリ7/18? 10
?(3) × 15(5) 9?(5) 商船
4? 2? 護衛
11 門司7/12 高雄 マニラ ミリ8/12
商船 22(5) 18(6) ×××△△ 5(3)
護衛
打切? マニラ ミリ8/16 12
××××× 12(4) 商船
護衛
13 六連7/24 高雄 マニラ ミリ8/18
商船 19(6) 19(8) 14(9) ××
護衛 10 12 ×
門司9/29 高雄 マニラ ミリ8/29 14
3(2) ×× 12(4) 8(4) 商船
護衛
15 門司8/19 高雄 マニラ 打切
商船 10(3) 10(7) ××△
護衛 ×
打切 北サンフェルナンド ミリ (16)
××××× 15(8) 商船
護衛
17 門司 馬公 マニラ ミリ
商船 15(2) 13(1) 10(5)
護衛
打切 マニラ ミリ 18
××× 8(4) 商船
護衛
19 門司9/19 高雄 マニラ ミリ10/17
商船 18(5) × 11(5) 11(7) ×××△△
護衛
門司11月末 高雄 聖雀 ミリ11/1 20
3(2) × 4(3) × 4(4) 商船
2? × 護衛
21 門司 高雄 打切
商船 14(3)
護衛
欠航 22
23 佐世保10/18 馬公 昭南11/12
商船 15(10) ×× 9(7)
護衛
欠航 24
25 門司11/3 聖雀 ミリ11/26
商船 22(11) ×× 2(2)
護衛
以後不明 ミリ11月下旬 26
3(1) 商船
3? 護衛
27 門司11/3 高雄 打切
商船 10(5) ××××
護衛
欠航 28
29 門司11/30 高雄 打切
商船 15(5) ××
護衛
欠航 30


本稿の内容は雑誌「戦前船舶」(国立国会図書館雑誌番号Z16−B429)第16〜20号に掲載された拙稿を要約の上、所要の追記を行ったものである。

主要参考文献
 本稿の記載内容は多くを「戦時輸送船団史」(駒宮真七郎著/出版共同社)によった。
 その他主として以下の各著等を参考とした。(順不同)
 「海上護衛戦」       戦史叢書/朝雲新聞社
 「海上護衛戦」    大井篤著/朝日ソノラマ
 「日本郵船戦時戦史」    日本郵船
 「続・船舶砲兵」    駒宮真七郎著/出版共同社
 「日本商船隊戦時遭難史」  海上労働協会
 「日本・油槽船列伝」    松井邦夫著/成山堂書店
 「潜水艦の死闘」    E・グレイ著:秋山信雄訳/光人社
 「日本海防艦戦史」    木俣滋郎著/図書出版社
 「戦時造船史」    小野塚一郎著/今日の話題社
 「日本の客船 世界の艦船別冊」野間恒・山田廸夫共編/海人社
 「戦時船舶史」       駒宮真七郎著
 「船団被害状況調査表」   第2復員局残務処理部
 雑誌「船の科学」各号 船舶技術教会
 雑誌「世界の艦船」各号   海人社
 雑誌「丸スペシャル」各号  潮書房



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