楽園へ  著者:今村仁良

 天地が燃えていた。神の力によって喚(よ)びおこされた劫火が、刻一刻とその偉容を増していく。
 私たちの凱旋を祝うはずだった広場は、阿鼻叫喚の巷と化している。炎から逃れようとした者たちに、王都の軍勢が容赦なく攻撃を仕掛けてきたのだ。歴戦の勇者たちもこの包囲の中、武装を解かれていては為すすべがなく、一人また一人と斬り倒されていく。
 辺りは一面、黄昏の紅に染めあげられていた。炎と血煙に彩られた、私たちの運命を象徴するような落日の色。
 怒号と悲鳴の渦巻く広場にぽつりと立って、私は兄様を想っていた。

     §

 獅子王エルトシャン。魔剣ミストルティンを佩(は)く最強の騎士。圧倒的な統率力で直属部隊クロスナイツを無敵たらしめた天才戦術家。神の血を色濃く受け継ぐ大陸屈指の英雄王。──それが私の兄様だ。
 容姿、見識、人格、剣技、覇気──兄様はどれをとっても万人の畏敬を集めずにおかない、生まれながらの王者だった。
 獅子のたてがみに喩えられる豪奢な金髪は、兄様の端整な顔立ちに威厳を添え、若年という侮りを列強の王たちにも許さなかった。
 体つきは一見ほっそりしていたけれど、それは闘いで膂力に頼らず、素早く精確に急所を突く技倆に長けているためで、服の下には無駄なく均整のとれた筋肉がついていた。その冷徹な剣は何かを守るためだけに振るわれ、必要なら自分の手を穢すことも躊躇わなかった。
 騎士道に基づく精神は高潔そのもので、英邁な為政者であり、国中の崇拝と敬意、あるいは憧憬や思慕を一身に受けていた。
 もちろん私にとっても、兄様は光り輝く神のような存在だ。ただ、王として立派というだけなら、こんなに愛してしまうことはなかったと思う。
 兄様は私が生まれてからずっと、温かで純粋な愛情を注いでくれた。未来の王としての教育を必死にこなしていた少年には、べったりまとわりついて遊んで遊んでとせがんでくる幼い妹姫は邪魔だったろうに、兄様はどんなに疲れていても嫌な顔ひとつせず相手をしてくれた。安穏と暮らしていた私は朝が苦手で、よく乳母やに金切り声をあげさせたけれど、兄様に手ずから揺すぶってもらえばすぐ跳ね起きて飛びついた。その関係は私が大きくなっても変わらなくて、日課を終えた私が真っ先に兄様のもとへ駆けていき、足元にもたれかかったり、膝に乗ったり、首にしがみついたりしているのは、私たちの育った城では当然のような光景だった。どんなわがままにも、兄様は笑って付き合ってくれた。
 剣術で鍛えられた兄様の体は、小さな私には頼りがいのある大樹のようだった。清浄な、どこか懐かしい匂いの漂う、一番安心できる場所。少年の発育途上の筋肉にはまだ柔らかさが残っていて、その感触が大好きだった私は、無意識のうちに頬や鼻先をすりつけて兄様をくすぐったがらせていた。兄様の周りの優しい空気と、心地良い体温にくるまれて、幼心にも愛され守られている幸せな実感があった。
 両親は私が物心つく時分に亡くなっていたから、歳の離れた兄様は私の親代わりでもあった。厳しい乳母やの叱責から逃げてくると、いつも兄様は間に入って私をかばい、その後どんなところが悪かったか穏やかに諭してくれた。この甘くて開明的な保護者のおかげで、私は王女という立場にあっても、型にはまらず伸び伸びと育つことができたのだと思う。
 たまにする喧嘩さえも楽しかった。それは仲違いというより、ほとんどの場合私がつまらない理由で一方的につむじを曲げてしまうだけなのだけれど、むずかっている私にはいつもよりもっと優しくしてくれたから、ときどき調子に乗って甘えの混じった怒り顔や泣き顔を兄様に向けた。それに、たとえ本気で拗ねていても、兄様の親愛に満ちた「ラケシス」という呼びかけを私が無視できるはずなかったし、おおむね頭を撫でてもらうだけで、何に怒っていたかさえどうでもよくなるのだった。
 因習と様式に縛られた無機質な王宮も、兄様がいたから寂しくはなかった。兄様は家族であり保護者であり人生の規範であり、気心の知れた幼なじみで、最高の相棒で──そしてたぶん、私の恋人だった。私は年を経るごとに兄様をいっそう好きになっていったけれど、私の「好き」はほんの子供の頃から恋心を含んでいた。ずっと恋していたと、たしかにそう思う。
 穏やかな日々を変えた最初の転機は、兄様の留学だった。いつもの他愛ないじゃれ合いとは違う衝突を、私たちはした。
 私は甘えたがりの子供ではあったけれど、私たち兄妹にとってお互いがどれだけ大事か、それなりにきちんと認識していたから。空気のように自然に傍にいる──いなければならない、生きていくのに絶対に必要な人だと。兄様にとっても、一番心が安らぐのは私と過ごす時間なのだと。
 私は、それはもう凄いことになった。
 私は兄様を失う恐怖に耐えられなくて、泣きわめいて兄様にむしゃぶりついた。そうすればどこにも行けないと思ったから。そして兄様の首に思いきり噛みついた。怪我をさせればどこにも行けないと思ったから。私は無茶苦茶だった。なのに兄様は呻きひとつ漏らさず、私の頭を撫でつづけてくれた。その優しさが胸に痛くて、私は血の滲んだ兄様の肌を舐めてあげた。兄様はくすぐったそうにした。私はやはり腹が立っていたし悲しかったので、照れ隠しも含めて、握りこぶしで兄様をぽかぽか叩きまくった。私が手を痛める前に、兄様はそっと手を押さえてきた。それでようやく正面から向き合って、私は必死に懇願した。
「どうしてわざわざ遠いとこに行くの。剣のお稽古だって勉強だってこっちでできるのに。エルト兄様はもうじゅうぶん強いのに。なんでも知ってるのに。お願いだからラケを捨てないで。置いてかないで。離れないで。一緒にいて。だって、愛してるもの。どうしても行くならラケもついてきます。そしたらもうわがまま言わないから。おねがいです。おねがい──」
 私が落ちつくのを辛抱強く待って、兄様はゆっくり話し始めた。
「愛の目的は……相手の欠けた部分を補完し、二人で一つの人格を創りあげ、融和の中で癒しあう……そういったものだと思う。他人と育むべきその関係を、俺はラケシスに求めた。姿ばかりの貴婦人に囲まれても倦怠と憂鬱に煩わされるばかりだったが、お前を気づかうことだけは自然にできた。たった一人の妹を慈しむのは、いつでも俺の喜びだった。
 当然だ。ラケシスは最初から俺に属している、俺の一部なのだから。血縁という、生を享ける前から結ばれている、すでに完成された絆──近親愛や自己愛は、自分と同列のものしか認められない貴族主義の最たるものだが、その偏執が俺にも根づいているのかもしれない。いずれにせよ、俺は孤独から逃れるために、最も安易な道を選んだ。性に合わない社交界で新たな絆を創る努力をすべきだったのだろう。だが、俺はお前を求めるしかなかった。
 王子としてではなく人間として、俺は支えが欲しかった。民を幸福に導くためには、まず俺自身が幸福の意味を知らねばならない。内に虚無を抱えた王が、どうして国を豊かにできるだろう。
 幸福とは何か。それを考えるとき、頭に浮かぶのはいつもラケシスのことだった。万民に責任を持ちながら、ただ一人傍にいてほしい人間を選ぶとするなら、お前以外に考えられなかった。
 可愛いラケシス。その笑顔に何度救われてきただろう。俺に似ていながら、俺に無いものをすべて持っている、俺の女神。惜しげもなく自分を差し出し、俺の空白を埋めてくれた。お前がいなければ、俺は真に生きるということを知らぬまま、重責に押し潰されていたかもしれない。
 俺はラケシスに愛してもらうためなら何でもできた。責任でも義務でもなく、ラケシスが誇ってくれる兄になろうと、その一心で己を鍛えてきた。痛みも疲れもラケシスのためと思えば苦にならなかった。そしてお前はいつも、俺が求める以上の愛情と信頼を返してくれた。
 俺はラケシスに負い目がある。年齢の差とラケシスの無垢をいいことに、兄妹としてはあまりに癒着した関係を強いてしまった。俺のこの感情は罪だ。単なる家族愛や一時の癒しではなく、妹であるラケシスに誰よりも依存しているのだから。人生のすべてを懸けてでも返さねばならない恩がある。何に代えても守らねばならないと思う。誰よりも幸せになってほしいと思う。お前と二人でこのまま暮らせればいいと、俺も願っている。だが、ラケシスの輝きを知りながら、俺の中だけにその可能性を閉じこめ成長を止めようとするのなら──ラケシスを無自覚に微睡ませたままこの手に捕らえ続けるのなら、俺の感情はもはや正当化しようのない悪となる。
 異分子を容れない閉ざされた世界での愛は、とても純粋で美しく、ある意味で完全に満たされている。欠落に気づかなければ、それを欲して足掻くこともないからだ。それでも、発展や進歩なしに真の幸福はありえない。互いが離れることで現れる世界を恐れるまい。俺にもお前にも、そこで学ぶことは必要なのだ。
 ラケシスが今与えてくれる愛を否定するわけではない。毎日のように贈られた愛の言葉から、未分化とはいえあらゆる情の有りようを俺は教えられたと思う。家族として、兄妹として、友人として、異性として──お前が俺に向けてくれるのは、幼い憧憬だけでなく、真摯な本物の愛なのだろう。だからこそ、いずれ俺ではラケシスを守れなくなるのだ。決して全うしてはならない想いを、俺はラケシスに抱いてしまったのだから。俺はこの狂った熱を手放すつもりはないのだから。たとえ倫理に反していようと、たとえお前を傷つけることになっても。
 そしてまた、自分が王の責務を投げ出せないことも嫌になるほど承知している。ラケシスの兄であることも王族であることも、俺を俺として育んできた、俺という存在の核なのだから。その事実から逃れようとすれば、俺にもラケシスにも臣民にさえ、取り返しのつかない歪みをもたらすだろう。
 俺の手の届かない場所──力の及ばない領域で、いつかラケシスも未来を選択する日がくる。ラケシスの愛の結論はその時に、外界との繋がりと、多くの指針から導き出してほしい。そうして辿りついた答なら、たとえ俺以外を選んだとしても、どんな形に愛が変わろうと、互いに心のすべてを委ねられると思う。罪も戒めも超え、昇華された愛で。
 何が起きてもこの愛を失わないために、一度ここで別れよう。離れていても、いつもラケシスを想ってる……愛してる」
 兄様は私の手をとったまま話し終えた。その瞳は曇りなく真直ぐで、耳に馴染んだ声にも淀みはなかったけれど、それまでにない熱情と強い意志がこめられていた。
 それは、控えめで穏やかな愛を示しつづけてくれた兄様が、初めて私にぶつけた激情だった。心情を深く吐露するのも、「愛してる」とはっきり言ってくれたのも、これが初めてだった。
 兄様が語りかけてくる間、私は感動のあまり息もできないほどだった。その声は私の奥深くまで届いて、未知の快感とともに心に染みわたった。輝く瞳に惹きこまれ、兄様から目が離せなかった。触れ合った手は痺れるようだった。愛の言葉が紡がれるたびに、小さな胸は爆発しかけた。はしたないことに下腹に軽い疼きすらあった。身も心も昂揚していた。
 このときの年齢からすれば難しい話を、私は一言一句全身で受け取って、あますところなく自分に刻みこんだ。私のことをもう大人だと認めて、理解できると信じて話してくれているのだから、決して忘れてはいけないと思った。
 もっと、もっと言葉がほしいと見つめつづける私を、兄様は胸の中に包みこんだ。それで話は終わりというように。
 大きな鼓動を聴きながら、「エルト兄様もドキドキしてる」と思った。
 兄様はほんとうに私を愛してくれている。こんな幸せなことが他にあるだろうか。私の一番好きな人が、私を一番に好いてくれている。それも、想像を絶する激しさで。その事実に私は酔った。このとき私はたぶん、世界一幸せな女の子だった。
 そして、何も考えず愛を満喫していた私の幼年期もこのとき終わった。私を怯えさせまいとしてか普段は雑多な感情をほとんど見せない兄様が、その実どれだけ苦悩してきたか、私も考えないわけにいかなくなった。どんなに時間がかかっても、兄様の言葉を正しく理解して、兄様も私も幸せになれる未来を選ぼうと決めた。
 今はただ、この人に従おうと思った。正しいことと誤ったこと、やるべきこととできないこと、恋慕と執着、誠意と愛染、理想と狂気──自分と世界のすべてを見通し、受け入れ、覚悟を固めている綺麗な少年。寂しいけれど、彼が示した道なのだから、それが最善だと信じた。

 兄様という保護膜なしで見ることになった世界は、それまでの薄い水彩画が、極彩色の油絵に変わったようだった。兄様が眩しすぎて気づかなかった、周りを取りまく穢いものや暗い感情──。
 不戦協定の水面下で起こる、各国の小競り合い。ヴェルダンやトラキアからの絶え間ない侵攻略奪。それに便乗した野盗の類がはびこり、人々の生活を圧迫していること。アグストリア全土の民から救世主のような期待をかけられている兄様は、他の有力諸公にはひどく妬まれていることも知った。兄様が進む道は敵だらけなのだ。真直ぐに前を見据える兄様だから、せめて後ろは私が守ってあげようと、おこがましくも決意したのだった。
 血の禁忌に悩みだしたのもこの頃からだった。
 侍女たちによると、私は兄様をそのまま女の子にしたような顔立ちらしい。公式の場で私たちが並んでいても、よく似た兄妹だと褒められた。自分の顔のことはわからないし、非の打ちどころのない美少年を兄にもった私へのお世辞かもしれないけれど、この頃の私には、兄様に似ていると言われるたびに喜びと、胸を刺す痛みとがあった。兄様はひたすらに凛々しくて、私はずっと兄様のようになりたいと思っていたから、そのことが誇らしく──他人でさえ私たちに兄妹の繋がりを見てとることができるのだと、悲しくなった。
 どちらかが養子ということはないかとお馬鹿な私は考えて、家系図を引っぱり出してみたところ……望みは半端に叶えられた。私たちは異母兄妹だった。これがどういう意味を持つのか、混乱した小さな頭で熟考し、喜ぶべき材料は何もないのだと気づくに及んで、やっぱり悲しくなった。
 母様はいわゆる後妻だったらしい。私が側室や妾の子ならもっと差別されていたかもしれないけれど、それは大人の事情だし、母様たちに何があったかまで調べるつもりはなかった。両親とはいえ人の私事なのだから。
 重要なのは、兄様と私は間違いなく血が繋がっているという事実だった。私は最愛の人と結ばれない──その無情な判決。兄様との間には厳然たる壁が聳え立っていた。
 兄妹に依存しすぎてはいけない、兄妹で愛し合ってはいけない、兄妹はいつか離れなくてはいけない──世界の摂理である、それらに逆らうのは罪なのだ。
 けれど、兄様は罪を自覚しながら、それでも私を愛すると誓ってくれた。だから大丈夫だ。私も兄様に依存するし、愛しつづける。今は離れていても、兄様が学校を卒業すれば、そこから先はずっと一緒だ。
 後になって膨れ上がっていく絶望も、ここではその程度で済むものだった。兄様の覚悟がどれほどのものだったか、私はまだ気づかないでいた。
 それにしても私は少し足りないのではと思った。いくら形式的に兄様と同格の王女として遇されていたにしても、十歳にもなって自分の出自を知らないのはおかしすぎる。国母の命日が年に二回あったことに「そんなものかしら」としか思っていなかったのだから、自分の阿呆さ加減にげんなりしてしまう。世の中の常識や両親のことがまるで気にならないほど、私の脳みそは兄様兄様で埋め尽くされていたのだろうか。兄様が心配するのも無理はない。
 これも私が気づかなかった欠落の一つなのだろうか。私は両親の不在を寂しがったことはない。それくらい、兄様の愛は私に篤かった。二人きりの肉親だからこそ強い結びつきを得られたのだと思うと、この境遇に優越感や満足感すらあるのだ。恐ろしいことに。
 そんな私がずっと見つめてきた兄様には、母親違いの兄妹だと意識しているような様子はなかったと思う。どうでもいいことだと判断したのだろうか。潔癖な兄様は、後妻や側室などという単語は思考にのぼらせる気にもならなかったかもしれない。私の情操教育を考えて黙っていたのだろうか。故人のことだし、あらたまって話すことでもないと思っていたのだろうか。
 とにかく、兄様がそんなふうだったから、私も妙な引け目を感じずに接することができたのだ。今、両親のことを知りたくないと言えば嘘になるけれど、兄様が話さないことを私から持ち出す必要はない。結局、私たち兄妹の関係はこれまでどおりだ。──そう思い、家系図を元の位置に戻した。
 自分の無知に驚きながら、一番に思い知ったのは、やはりエルトシャンという人は傍にいても離れていても私の中心なのだということだった。何をしていても、ふと気がつくと兄様のことを考えている。頼りにできる人がいない心細さが兄様の不在のためなら、くじけそうな心を鼓舞するのは兄様との思い出や、たまに交わす手紙だった。私は兄様の役に立てるよう頑張るのだからと、自分を叱咤する日々が続いた。別々に暮らしていても、私の気持ちは兄様だけのものだった。
 兄様は年に一度の長期休暇にしか帰ってこれない。だからその日が、私にとって一年で一番大切になった。何日もかけて一生懸命おもてなしの用意をした。
 兄様との再会はいつも我慢できずに涙が溢れてしまった。何度も夢に見た兄様が現実にいるんだと思うとたまらなかった。兄様の目も心なしか潤んでいたように思う。私たちは何度も接吻を交わして、長いこと抱き合った。
 兄様が帰省している間、私たちはほとんど一日中一緒にいた。日にちが限られているのだから、兄様と別々に入るお風呂や、眠る時間さえもったいなかった。兄様には起床後すぐ私の目覚ましになってくれるよう念入りに頼んだ。
 私のすることは以前と変わらず、兄様の膝の上で本を読んだり、兄様の胸の中で昼寝をしたり、兄様の隣で歌を披露したり、兄様に連れられて買い物に行ったり、兄様に抱っこされて散歩をしたり、兄様の的や重しになって鍛練に協力したり、兄様と何をするでもなくただ一緒にいたりした。深く理解しあっている私たちだから、必要な言葉はそれほど多くなくて、長いことだんまりが続くときがあったけれど、そんな沈黙も心地よかった。朝早く元気におはようございますをして、夜遅くに渋々おやすみなさいをするまで、兄様の一挙手一投足を飽きもせず眺めた。
 もう無邪気なだけの子供ではないのに、ほんとうに癒着という表現が相応しい間柄だった。けれど兄様の留学は兄離れ妹離れが目的ではないはずだから、私たちは互いが求めるまま、ありのままの関係を続けていればいいと思っていた。兄様もそれで納得していた。私は兄様を笑わせたり困らせたり呆れさせたりしながら、一緒の日々を楽しく過ごした。
 時間をおいて会う兄様は、そのたびに目に見えて魅力を増していった。私は滅多に会えない兄様が、今頃どんなに立派になっているか、どんなに素敵になっているか、勝手に想像をふくらませていたけれど、実際の兄様はいつも理想以上の姿で戻ってきた。
 まず武勇伝が凄まじいものばかりで、同じようにバーハラに留学しているクロスナイツ候補生の話によると、兄様は試合で千人抜きを達成したとか、学年単位で行われた模擬戦闘では戦術家としての偉才ぶりを発揮して「一軍を与えれば世界征服が可能」と教官に言わしめたとか、昔から規格外に強かった兄様は、たゆまぬ精進の結果いよいよ人間離れしてきたらしかった。
 とはいえ私も女の子なので、そんな化物じみた話より、容姿や物腰に当面の関心がいった。兄様は繊細な印象すらある目鼻立ちや顔の輪郭をそのままに、男性的な勁(つよ)さを備えた青年に成長していた。歩いていても座っていても凛と背を伸ばし、毅然と前を向いて、それでいて挙措は軽やかで優雅だった。兄様の変化は喪失ではなく、新たな美質の獲得だった。私はその時その時の兄様が一番好ましくて、できれば兄様の細かな移り変わりも傍で見つめていたかった。
 その事情は兄様も同じだったらしく、逢うたびに美しくなると私を褒めてくれて、この時期に成長を見守れないのは残念だとこぼした。そこでせめてもの慰めに、お互い一ヶ月ごとの肖像画を送る約束をして、まずその休暇中は二人で並んでいる絵を描いてもらったのだった。実物にはかなわなくても、思い出が形に残るのは嬉しい。兄様も私も、毎月律儀にその約束を守った。
 士官学校で何か大会が開かれるときは必ずバーハラまで行った。兄様の勇姿を見るためというより、兄様に会うことそのものが目的で。兄様はでたらめに強いので、その躍動を堪能したいなら、ほとんど一瞬で決まってしまう勝負よりも普段の鍛練のほうがいい。
 私はそこで兄様に、何人かの学友を紹介された。彼らは兄様の私への接し方にとても驚いていた。どのあたりに瞠目したのかはよくわからない。普段あまり表情を変えない兄様が、私と目が合ったときだけ、あるかなしかの微笑みを返してくれることだろうか。私がいつでも飛びついていける、そしていつでも駆け出していける優しい距離で気づかってくれることだろうか。
 学校での兄様は、うかつに冗談も言えない張りつめた雰囲気をまとっているらしい。兄様は無口な不言実行型で、喜怒哀楽も抑えこんでしまう人だけれど、それは無愛想という意味ではなく、嫌いな社交界でさえ如才なく礼儀正しい態度を保っていた。どんなに感情が揺れてもそれを表に出すことがないのだ。私がいないせいで不機嫌がにじみ出て、いつも仏頂面をしているのだと思うと、少し嬉しくなった。当たり前だけれど、兄様も寂しいのだ。
 兄様の親友のシグルド様には、エスリンという妹がいて、彼女とは同じ『兄様』持ちということですぐに打ち解けた。
 兄様は仏頂面でいてさえ、ずば抜けた能力や廉直な人柄に心酔する人は多いらしく、アグストリアの出身者を中心に兄様を崇める一大派閥が築かれていた。兄様自身は関知していない集団だというから学校というのは不思議な場所だ。とにかく兄様は学内一の有名人で、『エルトシャンの妹』はどこに行っても注目された。凛乎怜悧な王子が溺愛する少女を一目見ようということらしい。兄様は無遠慮な視線が私に群がるのを嫌がって、自分が面倒を見れない間は宿からできるだけ出ないようにと申し渡してしまった。そして退屈になってしまう私の遊び相手をエスリンに頼んだのだった。
 エスリンも大会には毎回来ていた。優勝が不動の兄様と違って、シグルド様は気分によって二位になったり二百位になったりしたから、エスリンの応援には熱がこもっていた。尻をひっぱたくという感じだった。
 仲良くなってくると、バーハラに滞在する間はエスリンと同じ部屋に泊まるようになった。私たちはそこでたくさん話をした。年少でまだまだ世間知らずの私は、いいおもちゃにされていた気もする。
 エスリンからは妙なことをたくさん教わった。男性下着の洗い方だとか、馬の尻尾でする恋占いだとか、寮生活は男の園だから兄様のような美形は危険だとか。最後の話は慌てて兄様に注進に行って、一緒にいたシグルド様に大笑いされた。
 男の園はともかく、エスリンによって開いた蒙があるのは確かだった。それは、好きな人の話をした時だ。大会を口実にその人に会いにきているという点でも私たちは仲間だった。
 エスリンは、兄様のもう一人の親友の名前をあげた。大事なことを打ち明けてくれたので、私も正直に兄様が好きと答えた。そうしたら、こういう話に肉親の名前を出すのは反則だと怒られた。私はこの友達に、私にとっての大切をわかってほしくて、私が兄様をどれくらい好きか、兄様にどんなに愛してもらっているか、私たち兄妹の思い出を一生けんめい話した。
 乳母やを怒らせて夕飯抜きになってしまった私のところに、兄様は自分の食事を持ってきてくれて、それを二人で分けあって食べたこと。兄様が大事にしていた硝子の像を壊してしまったのに、私に怪我がないか真っ先に心配してくれて、その後一緒に修繕作業をしたこと。ある寒い冬の夜、肩を寄せあって見上げた満天の星々が綺麗だったこと。絵本で見た花畑の妖精に会いたいと私が無茶を言って、城中の花壇を二人で真面目に探し回ったこと。
 士官学校での活躍に比べれば些細な日常の出来事ばかりだったけれど、私にとってはみんな輝くような宝物だった。年長者らしく聞き上手に相槌を打っていたエスリンは、記憶の宝箱からもっと引っぱり出そうと唸っている私に言った。
「誰でも一度は家族に恋するものかもね。私にも覚えがあるわ。頼りになる父上に憧れていたこと、傍にいてくれる兄上が好きでたまらなかったこと」
「う〜ん……? でも、今は他の人が好きなのでしょう? シグルド様のこと、もう好きではないの?」
「今でも兄上は好きよ、もちろん。いつか私が結婚しても、兄上のことは変わらず好きだと思う。エルトシャン様に比べれば男ぶりは落ちるし、だらしないところもあるけど、それ以上にいいところも沢山知っているから。良くも悪くも、長いこと一緒に暮らしてきたのだもの。……ときどき下着も洗ってあげたしね」
 私たちは少し笑った。兄様が城に帰ってきたら、洗濯は私の役目にしようと思った。
「あれは恋愛感情ではなくて、子供にありがちな錯覚だと言う人もいるけど……」
「でも、錯覚なんかではないと思うの。だって私、物心ついてから今まで、ずっとエルト兄様が好きなんだもの。兄様といるとドキドキしたりワクワクしたり安心したり興奮したり、全然落ちつかないし、でも幸せだし、兄様がいないと寂しくて、切なくて、悲しいの。こんな気持ちが十年も続いたら、それはもう幻想とは言わないでしょう?」
「怒らないで聞いてね。ラケシスは思春期入りたてで、精神が不安定なのは当たり前なのよ。恋愛には刺激が必要というし、その意味で『錯覚』しやすい時期だと思う。逢える日の間隔があけば、気持ちが長続きするのも不思議はないわ。エルトシャン様はあのとおり、理想が服を着て歩いているような人だし、そこらの貴族のぼんぼんとは比べる気にもならないでしょう。ラケシスの世界の男は、実質エルトシャン様一人だけなのよ。よそ見する対象がなければ遠距離恋愛は破綻しないというわけ」
「えと……ちょっと待って」
 頭のいい人に回転を合わせるのは慣れているはずだけれど、兄様とエスリンでは勝手が違った。兄様の言葉は、血の繋がりのためか重ね合ってきた時間の賜物か、どんなに難解でも染みこむように吸収できるのだ。友達を理解するためには、努力しなくてはいけない。そして指針の一つとして心に留めなくてはいけない。
 言われてみると離れて暮らすことで、私は兄様のことがさらに、凄まじく好きになっていた。エスリンが提示してみせたのはその一因だった。兄様はそんなことを計算していたのかしらと一瞬疑ったけれど、愛を手に入れるための駆け引きなど兄様の発想にはないと思い直した。好意は直截に、愛の言葉は真正面から──兄様の本心はあの時くれた言葉がすべてだ。だからこそ兄様もよくする心理分析が、この場合新鮮に思えたのだ。
 兄様への幼い思慕がいつから恋と呼べるものになったかは判然としない。刺激が錯覚を曳き起こすというなら、あの別れの日まで、兄様との間に劇的な出来事などなかった。その間はずっと、穏やかな日々の中で愛しつづけたのだ。たしかに子供だったけれど、今まで抱いてきた恋心が偽物とは思えない。私はそんなことを言ってみた。不満が声に表れていたらしく、エスリンはなだめるように言った。
「私も兄上に一時期抱いていたのは恋だったと思う。ただ、大きくなって自分のできることが増えると、それほど依存はしなくなるわね。もう少し経つと、甘えるのが照れくさくなるのよ」
 たしかに、エスリンはシグルド様と歳が近いせいか、私のように全身で兄様に甘えるということがなかった。抱っこしてもらったこともないと聞いて、私は驚いたものだ。
 兄様の抱っこがない生活! それは裸で凍土に放り出されるようなものだ。まほうぼうぎょ0でくらうヨツムンガンドだ。大げさかもしれないけれど、私はそんな日々を耐えてきた。兄様の抱っこはいつでも温かな思い出で、現在の癒しで、明日への活力だった。触れたところから元気が流れこんできた。兄様と同じ視点でものを見れることが嬉しかった。兄様との触れあいを心の支えに頑張ってきた。どこに行っても人目があるバーハラでは膝に乗ることもできなくて、私は我慢のしどおしでうずうずしていた。せっかく目の前に兄様がいるのだから、思うぞんぶん甘えたいのに。
「ラケシスくらいの歳になると、他の男性に目がいくのが普通よね。エルトシャン様のようなお兄さんがそうそういないのもあるけど、いつまでも家族にしがみついているのは間違いだという感覚を植えつけられるからかしら」
「乳母やは、兄様とはいえ殿方に馴れなれしくするのは良くない、って。他の城からきた意地悪な子たちにもよくからかわれた。侍女たちも最近は変な目で私たちを見るし……でも私は、誰になんて言われてもエルト兄様が好きだったの。自分がよくないことをしているのはなんとなくわかっていたけど、エルト兄様はいつでも優しくて、絶対に私を拒まなかったから、私はこれでいいんだって思っていたの」
「私はエルトシャン様のことが怖かったけど、今ならラケシスの気持ちもわかるわ。自分が大切にしなければいけないものを、きちんと見極めている人なのね」
「うん。エルト兄様は凄い人なの。ほんとうに強いの、心も体も。なのに何ひとつ自慢したことはないのよ。身分の高さで威張る人は大勢いるけど、そんな人たちとは全然違うの。兄様は、身分はもちろんだけど、自分自身の才能や実力も自慢したりしないの。自分には目的があって、それを達成できる力さえあれば人からの賞賛もいらないって、そう思っているみたい。ああいうのが、誇り高いっていうんだと思う。真面目だし誠実だし、品があるけど堅苦しいわけではないの。優しいけど、私のいけないところもきちんと教えてくれるの。信じられないくらい頭がいいのに、ちょっと抜けてるところもあって、そこが可愛いの。あとね、さらさらの髪とか、真っ白ですべすべの肌とか、大好き。凛々しいお目めも高いお鼻も締まったお口も、みんな好き。たしかに怖そうに見えるかもしれないけど、あれで唇は案外柔らかくてね、いつもすごく優しく口づけしてくれるの。身だしなみもきちんとしてるでしょう? エルト兄様って背が高いし、すらりとしてるから、どんな服でも似合うの。贅沢しなくても、さりげなくお洒落なのよ。このドレスも兄様に選んでもらったんだから。素敵でしょう。それにね、それにね──」
「ラ、ラケシス、落ちついて……もうわかった、わかりましたから」
「あぅ……自分の兄様を本気で好きなのって……変かしら」
「あんまり幸せそうに話すから驚いたわ……変といえば変かもしれないけど、そこまで想えるのは凄いと思う。それに、ラケシスとエルトシャン様が一緒にいるところ、綺麗よ」
 私の恋を否定するわけでも、無責任に応援するわけでもない、そんなエスリンの言葉がありがたかった。
 私は、エスリンたちも充分凄いし、綺麗だと思っていた。
 シグルド様は妹に普通に優しくて、エスリンも兄を普通に慕っている、二人はそんな兄妹だった。普段はお互いあまり干渉しない。けれど間違いなく愛しているし、意識するまでもなく助け合って生きている。長い時間をかけて培われた、確かな家族の情。
 仮にどちらかに危険が迫れば、真っ先に駆けつける。命を懸けたぎりぎりの状況で、たぶんこの二人は、自分の身も顧みずに互いを守ろうとするだろう。もちろんそれは私たち兄妹も同じだ。ただ、常からの相互依存なしでそれだけの信頼を感じさせるこの二人を、私は凄いと思っていた。
 シグルド様とエスリンを結ぶ愛の形なら、距離や時間の隔絶が苦にならないのだろう。エスリンは私のように、兄様に触れたくて不審な挙動を見せはしないし、兄様がいないために情緒を乱して侍女たちを閉口させることもないはずだ。二人の清らかな、抑圧されていない兄妹愛を見ていると、自分は相当に特殊なのだと否応なしに知らされてしまう。
 兄様にとっても、シグルド様たちのありようは一つの理想だったかもしれない。あのとき言っていた、何があっても失われない愛を体現している兄妹。とりたてて強烈な個性でも華やかでもないシグルド様に、兄様は心から敬意を払っていた。仰ぎ見られるばかりで同格の友人がほとんどいなかった兄様が、自分にないものをその内面に見つけ出せる人として、シグルド様を親友と認めていた。この兄妹の美点に誰よりも感じ入っていたのは兄様だ。ただしそれでも、私に対する姿勢は変わらなかった。
 私が物足りなく思っていても、学内の兄様しか知らない人には『妹と手を繋いで歩くエルトシャン』や『妹に穏やかな微笑みを向けるエルトシャン』などが十二分に衝撃的な光景らしく、私の何度目かの訪問で『兄馬鹿エルト』の評判は確固たるものになった。対する兄様はどこ吹く風で、いやみのない親友のからかいを適当に受け流し、私にかまい続けてくれた。迷惑をかけたくないので我慢していたけれど、もし私が抱っこをせがめば、兄様は権威の決定的な失墜も怖れずに、一緒にいる間ずっと抱いてくれたと思う。
 私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。兄様のような玲瓏たる美貌の持ち主が、自分の胸以下の背丈しかない子供の相手をする様子は、エスリンがどんなに慰めてくれても、客観的には明らかに異様なのだ。私は手足がすんなり伸びはじめていたから、ひょっとしたらお似合いの恋人に見てもらえないかと儚い期待もしたけれど、残念ながらそんな評価を下してくれる人はいなかった。私たちは誰がどう見ても兄妹らしかった。
 私は兄様に、兄妹が仲良くするのはおかしいのかしらと事あるごとに訊いた。もちろん、否定してもらうことを期待して。そんな私に兄様は、いつもただ優しく頭を撫でてくれるのだった。
 常に何か巨大なもの──それは“世界”であったり、それを形作ってきた“法”であったりした──と向き合っている兄様には、余人からの評価や奇異の視線などは一顧だに値しないようだった。遥かに遠いところを見据え、自分を曲げず迷わず、真直ぐに進んでいく。私との関係でも、兄様は近親愛の罪より、むしろそれが導く停滞や退行を危惧していた。私が幼さからの甘えではなく、葛藤の末、唯一の人として兄様を選ぶのなら、喜んで支えになってくれるだろう。
 私はそんな兄様が好きでたまらないのだ。血の繋がった兄を愛するのは罪かもしれないけれど、誤りではないと信じられた。悩みや迷いが尽きなくても、兄様といるときだけは安心できたし、幸せだった。兄様に向ける笑顔にはいつも、この人の安らぎでありたい、この人も幸せにしてあげたいという願いをこめていた。
 初めて兄様の弱さを見た出来事もあった。私はあれをあえて弱さと呼ぶけれど、あのとき私がもっと幼ければ、以前のように駄々をこねるだけで、結局兄様は無謬(むびゅう)なのだからと諦めていたかもしれない。兄様を翻意させるという奇蹟を成し遂げた、あの出来事に限っては、兄様への愛をはっきり自覚した後に起こってよかったと思う。
 それは兄様が留学して三年目の夏だった。その年帰省した兄様は、私が近づくことを許さなかった。自分は人殺しだから、穢れが移る──そう言って。
 喜色満面で抱きつこうとした私は凍りついて、どういうことと聞き返した。「人殺し」という言葉より、兄様に近づかないよう言われたことに愕然とした。
 お供のクロスナイツ候補生たちが待ってましたと言わんばかりに始めた話によると──。

 先日、治安の悪化に業を煮やしたバーハラ政府が、士官学校の生徒まで駆り出して山賊狩りを行なったのだという。命の危険がともなう実戦での練兵ということで、臨時の徴兵は最高学年のみを対象に五十人ほどが集められた。首席の兄様は彼らを束ねる指揮官に任ぜられた。
 兄様たちが担当したのは、その近辺で最大規模の山賊の一団だった。初陣の者が大半ではこちらが不利と兄様は上申したけれど、政府に報告済みの作戦を撤回させることはできなかった。教官連は、人数が同程度なら、正規の訓練を受けた士官候補生が山賊ごときに遅れをとるはずはないと高を括っていた。
 兄様を含めて、士官学校生の多くは馬上での攻防に慣れた騎兵であり、彼らを主体とした編成で山中では戦えない。また、罠が設置されている可能性もある。平地での総力戦以外に採るべき策はなく、山賊団が根城にしていた山の麓で、“仕事”から戻ってくる彼らを待ち伏せて、戦闘が始まった。
 学生たちの動きは酷いものだった。前もって定められていた作戦行動や味方との連携はおろか、剣を振ることすらままならない。初めて実地で味わう、生命の危機という本能的な恐怖が、彼らの肉体と思考の自由を奪っていた。職業的な殺人者たちを前にして、彼らは生まれたての羊も同然だった。
 好き勝手に斧を振り回しているだけの野人の群れに、選良であるはずの若者たちは追い散らされていった。上等な防具を支給されていたため致命傷を負った者こそいなかったものの、勝手に持ち場を離脱する者が相次ぎ、陣形は総崩れとなった。
 兄様は部隊単位での指揮を断念し、かろうじて踏みとどまっていた味方の再編成をシグルド様に任せ、戦場に単身躍り出た。
 死を巻き上げる風が吹き荒れた。
 その太刀筋を視認できる者はいなかった。屈強な山賊たちが、兄様の白馬とすれ違うだけで血飛沫を舞い上げ倒れていく。何をされたかも解らないうちに絶命する。
 突如現れた、異様ともいえる凄絶な光景が、調子づいていた山賊たちを恐慌に突き落とした。神や悪魔を想起させる、理解を超えた災厄が彼らに降り注いでいた。
 兄様は山賊団の過半数を殺しきったあたりで、目ぼしをつけておいた頭目に剣を突きつけ、降伏を勧告した。それで戦いは終わった。戦意を失った残敵はすぐに捕縛された。
 山賊たちの死体は一旦捨て置かれ、後日バーハラの軍機関に処理を任せることになった。無駄の一切ない剣技で倒されたために、注意しなければ傷の見えない者も多く、それが死体なのか、それとも死んだふりで反撃の機を窺っているのか判別できなかったからだ。
 その場の死者は全員、急所への一撃で絶命していた。肋骨の隙間をぬって心臓を貫き、眼窩から脳を抉り、人体に点在する動脈を断ち斬る、冷酷無比の殺人剣。精緻にして雷速の神技。
 魔剣士の末裔は、昂揚のあとすらない白皙もそのままに、静かに帰還を宣言した──。

 兄様の取り巻きのクロスナイツ候補生たちは顔を紅潮させてこもごも語る。兄様の掌中の珠である私がこんな血なまぐさい話を聞いていいのかしらと思ったけれど、武骨な彼らは興奮のためか口を止める気配すらない。兄様を賞賛すればどんな内容でも私は喜ぶと勘違いしているのだ。それでも兄様が注意しないのだから私も知っておくべき話なのだろうと考えて、我慢して拝聴していた。
「エルトシャン殿下は勲章を授与されたのですよ。凱旋の行軍は、それはえらい騒ぎになりました。貴族の腰抜け息子たちは、武功はともかく自分の命だけは守りましたから、死者も重傷者も出ませんでしたし、なにより殿下お一人で五十人からいた山賊団を壊滅させてしまったのですから」
「初陣で、しかもミストルティンなしで、ですよ。あの教官ども、山賊ごときを相手に神器の使用は許可できないなどと偉そうに。たしかに連中の言い分にも一理ありますが、しかし見たかったなぁ、エルトシャン殿下が魔剣を携え軍勢を率いる姿を。普通の剣での戦いぶりにも我らは学ぶところが多いですが。温室育ちの学生では実戦で使いものにならないと暴露してしまいましたからね」
「いえ、もちろん我らがクロスナイツとなった暁にはあのような醜態は見せません。殿下のご指示に忠実に戦えるよう、猛省して訓練に励みます。それにしてもさすがに殿下は別格でした。瞼を閉じれば今でも蘇るのですよ。全身を血に染めながらなお神々しい、あの御姿が。我らが軍神の威容が。このような方をいずれ陛下と仰いでお仕えできるのだと思うと、今から胸が躍ります。ああ──」
 申し訳ないけれど、その感動に付き合う気にはなれなくて、放っておくといつまでも語り続けそうな彼らにはそのあたりで退出を願った。二人きりで差し向かいになってから、兄様はようやく口を開いた。
「指揮官としては最低の戦いだったが……山賊たちを虐殺する間、俺に躊躇はなかった。血や穢れを怖れていては王たりえないからな。殺し、奪い、それを創造の糧とせねばならないこともある。ただ、これでラケシスの安らぎとなる資格は失われたのだと思った。これはそうなってから気づいたが、お前と支え合ってきた自分とは、何か決定的なものが変わったように思えた。この穢れた手ではもうラケシスに触れることはできないと──俺に後悔はないが、それだけは悲しかった」
「エルト兄様、私を傷つけることになっても愛し続けるって、おっしゃったわ」
「愛し続けるとも。だが、傷と穢れは違う。傷は癒すことができるが、穢れはへばりつき、振り払うことのできぬ業となる。傷の跡は補強され、さらなる高みへと進化する礎になるが、穢れは沈み溜るだけだ。道を封じ、未来の可能性を狭めてしまう」
「今さら何よ。もう私の未来なんて一つしかないもの。エルト兄様はまだ早いっておっしゃるかもだけど、私はとっくに決めてるもの。ご存知でしょ」
「これは俺の身勝手なのだよ。ラケシスは俺の聖域で、それを穢すことは俺が自分に許せない。ラケシスにはまだ選択の余地が残されている。俺の掌から巣立っていく未来も選べるのだから。その日は、天に還る女神を見送るように──そう願っている。お前とこのまま二人でいたいと、それと同じほどに強く願う、俺の夢の一つだ。お前がどう思ってくれていても──」
「兄様のばか!」
「……」
「ばかです、大ばか。とんちんかん。ぼくねんじん。わからずや。かっちんだま。おたんこなす」
 兄様は潔癖すぎる。極端すぎる理想主義者なのだ。そのくせ兄馬鹿で偏執狂で私をよちよち歩きの頃から愛している幼女嗜好の変態なのだっ。
 それでも、たとえこれから何千人何万人殺しても、国中から殺人鬼と罵られても、世界を破滅させたとしても、少なくとも私だけは兄様が穢れているとは思わない。兄様はいつも正しいけれど、私に触れる資格が失われたなんて、それだけは絶対に違う。
 たとえ兄様の言う穢れがほんとうにあったとしても、私は喜んでそれを受け入れたい。兄様がくれるのなら、愛も罪も、痛みや穢れさえも、どんなものでも嬉しい。いつでも大切な思い出になる。そう思えるのは兄様だからだ。すべてを許せるのも、この世で兄様だけだ。今までもこれからもずっと変わらない、それが私の真実だ。
 そんな私の気持ちを知っているはずなのに、私が心変わりすることや、私を手放す覚悟などを勝手に固めているのだ、この人は。この広い世界、兄様を越える男性も──可能性は皆無に等しくても、ひょっとしたらいるかもしれない。けれど、それをどうやって愛せというのだろう。数えきれないほどの思い出を共有し、その中でずっと愛し続けてくれた兄様以上に、どうやって? 他人に心惹かれる私など、兄様には想像できるのだろうか。私にはできない。女性の徴(しるし)はとうに表れているのだし、愛することも受け入れることも、私は強い覚悟をもって決められる。私には絶対に、兄様しかいない。
 あのとき狂的なほどの心の襞を覗かせてくれたのも──もしかして、私が怖がって離れていくことを期待したからだろうか。実兄に身も心も委ねきっていた私が正道に立ち返って、いつか普通の幸せを見つけられるように。
 だとしたらお生憎様だ。あのときの兄様はたしかに怖いほど魅力的だった。私は怖くなるほど幸せだった。私が感じた怖さはそれだけだ。私が兄様を嫌悪したり離れたりすることはありえない。私の存在の核は兄様なのだから。
 世間に認められない愛だとしても、想うだけなら許されるはずだ。別に人様に迷惑はかけない。兄様は私を政略結婚の道具にはしないだろうし、兄様を愛することで他の男性に関心がいかないからといって、それは私の自由というものだ。私は「エルト兄様のような人でないと結婚しません」と所構わずのたまわっているけれど、それでもしばらく前に比べれば大人しく本心を隠しているつもりだった。「エルト兄様と結婚します」と本気で宣言していた時期もあったのだから。不可能だとわかっていても、それが私の心からの望みなのだ。一生兄様についていく。最愛の女性の心変わりを覚悟している兄様は、少しおかしい妹の面倒を見る覚悟もあるはずだ。
 私はもう、問答無用で抱きつくことにした。けれど、兄様のような超人の動きについていけるはずもなく、あっさり逃げられてしまう。
「……ちょっと兄様! どうしてそんな、意固地なんですか! あんっ! 動いちゃ、だめです! ああ、ひどい! こらあっ!」
 それからというもの、私たち兄妹の意地の張り合いは、追いかけっこや隠れんぼにまで次元を低くした。兄様の部屋に忍びこみ、寝台の陰に隠れて待っていたら、気配を読まれて侍女たちに引きずり出された。鍵を掛けられたので扉の前に張りこんでいたら、窓から脱出された。接客中なら動き回ることもできまいと思っていたら、私は応接室に出入り禁止になってしまった。
 これ以上戦いが長引くとバーハラにとんぼ返りされかねないので、私は最後の手段に出た。兄様が湯浴みをしている間に、城の給仕長に頼みこんで鍵を借り、兄様の部屋からミストルティンを盗み出したのだ。モノジチを取って自室に立てこもり、「返してほしかったらエルト兄様一人で来なさい」と要求した。
「今、周りには誰もいない」
「ほんとね? 乳母やも侍女たちもいないわね? クロスナイツが破砕鎚なんて構えてないわね?」
「……ああ」
「ゆっときますけど、兄様を囮にして窓から突入作戦も無駄ですからね。ちゃんと鉄板で固めてるもの」
「こんな馬鹿馬鹿しい話、誰に言えるものか」
 私はわざわざ扉に嵌めていたつっかえ棒を、また四苦八苦しながら外した。
 うんざり気味の兄様を部屋に招き入れると、私は抜き身のミストルティンを抱えたまま言った。
「どうぞ」
 兄様は、私の肌に食いこんでいる刃を見つめていた。たとえ私が魔剣士の直系でも、ミストルティンが現在の主と認めるのは兄様だけだ。私が持っていても柔肌に傷ひとつつきはしない。ただし、兄様が魔剣の力を制御しそこなえば、私の体は簡単に引き裂かれるだろう。
 私がここまでするとは思っていなかったはずだ。兄様は動かない。自分の聖痕とミストルティンが共鳴しないよう集中している。兄様はいつでも全力で私を守ってくれる。
 私は兄様の手を握った。
「つかまえた」
「……」
「綺麗な手。ぜんぜん変わってない。……ね、抱っこしてください。私、ずっと我慢していたのよ」
「…………」
「それで、髪を撫でながら口づけね。意地悪した罰として、抱っこしたままで百回続けてもらいます。心のこもっていないのが一度でもあったら最初からやりなおし」
「……………………」
「今夜は一緒に寝てもらうつもりで呼んだの。ああ、何年ぶりかしら……兄様も嬉しいでしょう? ずっと考えていたんです。兄様に『愛してる』って囁いてもらいながら眠るのは最高だろうな、って。わかりきったことでも、言葉にしてもらうと嬉しいんですから、絶対にそうしてくださいね」
「…………………………………………」
「ゆうこと聞いてくれないなら、今度こそ学校までついていきます。絶対に放してあげません。兄様も、剣も」
 とうとう根負けした兄様は、もう笑うしかないという感じで望みを叶えてくれた。それでようやく私たちは元通りになった。
 ちなみにその後、兄様の衣類を洗濯する役目も見事奪取した。衣類というのはもちろん下着も含む。侍女たちの呆れ顔など知ったことではない。
 私たち兄妹が離れて暮らした三年はそんなふうに過ぎていった。久しぶりに兄様と会えたときの喜びはやはり大きくて、私はそのたびに互いの想いの深さを確認して幸福にひたっていた。それは次の逢瀬までの孤独に耐える力と、何があっても兄様を愛していくのだという決意をもたらしてくれた。一緒にいられるのは年に二十日もないのだから、どうしても寂しさは募る。早く時間が過ぎればいいのにといつも思っていたせいか、一日がずいぶん長く感じられた。
 指折り数えた卒業の日、私ははしゃぎ回りたくなるほど嬉しかった。やっと兄様が帰ってくる。これからまた一緒に暮らしていける。私を待っている愛の日々を思うと、じっとしていられなかった。
 私は馬鹿だった。少しは世界が見えてきたと思っていたけれど、まだまだ子供だった。兄様を囲むクロスナイツや重臣たちの、沈痛と言っていいほどに緊張した面持ちをまるで見ていなかった。一人で浮かれていた。兄様はこれからが大変だというのに。
 病弊に蝕まれたアグストリアの民にとって、魔剣ミストルティンとその継承者は連合の象徴であり、待ち望まれた特効薬だった。学生の時分にすでに戦功をあげ、始祖ヘズルの再来といわれる勇名を馳せていた兄様に、無為な時間は許されないのだ。ノディオンの王位が空座の間に問題は山積みされ、一刻も早い打開策が求められていた。
 兄様の使命を忘れていたわけではない。士官学校を卒業すれば間をおかず即位するとは聞いていたし、そのための準備も城ですでに始まっていた。ただ、難しい政治は今までどおり大人に任せておくものだと──兄様が国家の手綱を握って忙しくなるのはずっと先だろうと楽観していたのだ。
 本来数日にわたって祭儀栄典の続く戴冠式は、兄様の意向で簡略化され、慌ただしくも滞りなく行われた。当日になってもそれを行事の一つとしてしか捉えていなかった私は、荘厳な装束を身につけた兄様の隣に座って、「なんだか結婚式みたい」などという妄想で悦に入っていた。詰めかけた民衆も世界中から集った王族名士たちも、みんな私たちの愛を祝福している──そんな物語を思い描いていた。最悪に馬鹿だ。
 魔剣を奉ずる武の国ノディオンの王として、兄様の戦いが始まった。
 兄様とゆっくりのんびり暮らしたいとか、しばらく私だけを見てほしいなどという希望は、子供の戯言もいいところだった。そんなことはとても言い出せない雰囲気になった。
 兄様が私に冷たくなったわけではもちろんない。兄様は何も変わらない。自分の為すべきことを何年も前から知悉していた兄様に、今さら心機一転など必要ないのだ。あまりに兄様が変わらなかったから、私は甘い未来を夢想してしまっていた。
 殺気立っていたのは兄様の周りの人々だった。兄様はその中心に端然と佇み、執務は遺漏なく淡々とさえ見えたけれど、実際には目まぐるしい早さで暫定政権の膿を掃き出していった。有能過ぎる兄様は、臣下にも相応の能力を求め、血筋だけで地位にしがみついているような者はすぐさま降格された。兄様はその点容赦がなかった。
 苛烈な改革で引き締まった臣下たちがひっきりなしに兄様のもとを訪れ、立ち働くようになった。彼らに応対する兄様には寝る暇すらなさそうだった。
 そんな激務の中でさえ兄様は、私の訪問をいつでも歓迎してくれた。ほんとうに嬉しそうに笑ってくれたから、私はまだ兄様の支えでいられるんだと自惚れることができた。
 兄様はこの頃から私を一人前に扱ってくれていた。国家の大事について議論を交わしているときでも、私を追い払いはしなかった。王妹も為政者の責任を背負っているのだからと言って。私が役に立てるようなことはなかったけれど、そんな兄様のはからいが嬉しくて、私はそれまで以上に勉強を頑張るようになった。
 兄様が城にいるかぎりは不安はなかったのだ。私だけのものだった愛情が、他のもの──国のすべてに注がれるのは複雑な気持ちだったし、抱っこはおろか気安くすり寄っていくこともできない生活には正直がっかりしたけれど、これ以上わがままを言えるはずがない。
 問題は戦争だった。
 ヴェルダンから雲霞(うんか)のように押し寄せる蛮族や、トラキアの竜騎士団、果ては大陸北端の海賊まで、アグストリアを脅かすあらゆる勢力が兄様の敵だった。連合には機動力に優れた部隊が乏しいため、クロスナイツは戦争のたびに地方からの出撃要請を受け、兄様はその長として矢面に立たされることになった。
 兄様はどんな相手でもまず交渉によって解決の道を探ろうとしたけれど、金品や領土拡大が目的だと堂々と言ってのける人種に話し合いが通用するはずもなく、毎回武力での衝突は避けられなかった。そのうえ背後に控える連合諸公は大した軍備も持たないのに、当代随一の戦術家が味方にいる自信のためかひどく好戦的で、兄様は常に凄惨な殲滅戦を強いられていた。最強の戦力を率いているにもかかわらず──むしろその自戒から、一貫して穏健派の立場だった兄様も、諸公の総意に従わないわけにいかなかった。
 兄様は勝ち続けた。クロスナイツを引き連れてアグストリア全土を駆け、国土防衛の要となり、その先々にはびこる山賊団もまたたく間に駆逐した。遠国の友が窮地にあれば、連合での立場が悪くなるのも構わず、エルトシャン個人として単独の遠征を行った。
 どんな戦いでも、兄様のいる場所は最激戦区になった。ミストルティンの黒い輝きは、戦場のどこにいようと目に入る。それを掲げれば、自軍には一糸乱れぬ統制をとらせることができた。魔剣に呼びこまれた敵兵はことごとく倒し、その武威を示すことで味方の士気を上げ、敵軍の戦意を挫いた。
 私は──こんな酷いことになるとは思っていなかった。連戦につぐ連戦の中、そんな戦い方ではいくら兄様でも早晩命を落としてしまう。出立する兄様を見送る日は、もう二度と会えないかもしれないと身を切られるほどに不安だった。兄様が城にいない間、生きた心地がしなかった。
 アグストリアを取り巻く不穏な情勢は知っていたはずなのに。兄様の力になれるよう頑張ってきたはずなのに。もっと真面目に日々を送っていれば、私にも何かできたかもしれないのに。兄様は今の私の歳で、大人の騎士たちを易々と打ち負かしていた。どんなことでも知っていて、当時の執政官とも対等に意見を交わしていた。
 私ときたらまるで無力だった。剣を持てば重さに振り回され、馬にもろくに乗れず、頭も良いほうではない。自分の中でずっと高めてきた、唯一誇りに思えるものは、兄様への想いだけだった。私はそれさえあらぬ方へ向けて時間を浪費してきたのだ。
 兄様にじゃれつく暇があったら、素振りの一回でもしておけばよかった。兄様を想ってぼんやりしている間に、魔道書も読んでおけばよかった。そう思って自分を責めた。もう甘えられなくてもいい。とにかく兄様に生きていてほしいと願うようになった。
 私は怠けてきた剣術魔術を積極的に学びはじめた。兄様の良い意味での嫌戦主義を知っていたから、それまでは兄様の優美な動きを楽しむだけで、戦技そのものには興味を持てないでいたのだ。けれど、兄様が責務に縛られ危地にある以上、一刻も早くその隣で助けになりたかった。
 誰もが内包する魔力──異能を発揮するための基礎であるエネルギーの利用法は、大別して二つあった。
 一つはそれを体内に充溢させ、肉体機能の向上をはかる技術。筋肉組織の強化や、魔力の流れを神経系に代用することで実現する神域の超反応、あるいは細胞の活性化による負傷疲弊のすみやかな回復。筋量の多くない兄様が目にも止まらぬ速さで剣を振るうのも、多方向から襲いくる刃や矢を捌けるのも、連日戦いづめで顔色ひとつ変えないのも、その原理を極めた者が達する境地だった。
 肉体面への魔力制御に長けていれば、細身の女性でも一流の剣士になり得るし、小柄な少年が筋骨隆々の大男を吹き飛ばすような光景もままある。それはむしろ近接戦闘を行ううえでの第一条件であり、魔力を満足に使いこなせないヴェルダンの民が軽んじられる理由でもあった。この世界で、運動能力は必ずしも体格に比例しないのだ。
 私は最初、この方面から戦うための力を得ようとした。兄様を傍で守るには、攻防両面に秀でた戦士としての実力が不可欠だと思ったからだ。けれどそれは兄様が許さなかった。
「ラケシスの才も、どれだけの覚悟で訓練に臨もうとしているかも、俺は知っているつもりだ。信念のためなら禁忌を冒すことも辞さない勁さ──お前なら殺人も躊躇せずやってのけるだろう。命の重みを知りながら、押し潰されることなく立つことができるだろう。だが、わかってほしい……妹に人殺しをさせたい兄などいない。ラケシスが城で待っていてくれるから、俺は迷いなく戦える。生きて帰らなければと思える。もしラケシスが戦場で刃を向けられたとしたら──そのとき俺は冷静でいられる自信がない。この世でお前だけが俺の心を乱すことができるのだから。俺のためを思うなら、どうか自分の安全だけを考えてほしい。俺はラケシスを戦場に近づけたくない。お前が譲らないのなら、監禁してでも城に留める。たとえお前に憎まれてもだ」
 そこまで言い切る兄様に逆らうことはできなかった。けれど私も、何の助けにもなれず城で祈っているだけの毎日に耐えられるはずがない。
 私は魔剣士の末裔としての力を引き出すために、もう一つの方法を選ぶことにした。魔道書や聖杖に封じられた力を呪文の詠唱によって発動させ、それを媒体に、体外に放出した魔力によって物理現象を顕現させる、すなわち“魔法”だ。
 攻撃のための魔道書を修得することも考えた。魔剣士の血統には、どんな武器や魔道書でも扱える素質が眠っているのだし、遠距離・広範囲への破壊能力は、戦術的に絶大な効果をあげるだろう。魔力を断続的に放出してしまうと、肉体の強さは一般人と大差ない水準にとどまるけれど、その特性のため後衛に配置される魔道使いは戦場ではむしろ安全なほうだ。
 けれど兄様の言葉を聞いてしまったら、もう戦場に出るのは諦めるしかなかった。兄様が大切にしてくれるこの身に大量殺戮の技を叩きこみ、そのうえ死の危険にさらす──それは兄様を苦しめるだけでなく、愛する人への侮辱にすらなるのだ。
 結局私にできるのは、城に戻ってきた兄様とクロスナイツを、聖杖を使って治療することくらいだった。それも私の気がかりとは裏腹に、兄様はほとんどの場合かすり傷ひとつ負ってはこなかったのだから、私の存在意義はなんなのかしらと嬉し悲しくなってしまう。
 兄様は魔力を放出する技能を一切使わない代わりに、その身体能力だけでなく、攻撃魔法への耐性も極限まで高めていた。強大な魔力を凝縮し、自身に張り巡らせた障壁は、同質のエネルギーによって構築された現象を中和し無力化してしまう。近接戦闘を得手とする者にありがちな弱点をものともしない、神族の中でさえ桁外れの天稟だった。
 兄様の能力に、ミストルティンによって展開される防護膜を上乗せすれば、生半可な魔法では髪の毛一本揺らがない鉄壁の防御となる。魔剣を構え気を張った兄様には、武器も魔法も通用しないというわけで、並の兵士が何人束になろうと倒されるはずのない道理だった。こと戦闘に関して、兄様は遥かな高みから降臨した闘いの神といってよかった。
 周りを固めるクロスナイツも、あらゆる戦局に対応できる猛者ばかりだった。攻撃力・防御力・機動性、すべてに優れた、弓矢と魔法が不規則に飛び交う戦場において最も確実に機能する騎兵部隊。それが兄様の指揮のもと、あるときは一個の生命となって鏃(やじり)のように敵陣を貫き、またあるときは指令頭の忠実な手足となって精密自在の連携を見せる。アグストリアの大地で戦うのなら、彼らには一分の隙も表れない。
 知れば知るほど不安要素の見当たらない無敵ぶりだった。沈着冷静な兄様なら、不慮の敗北もありえない。忠義篤いクロスナイツも最後の一人になるまでその主を守ってくれるだろう。
 それでも──どうしても万が一の不安はこみあげてくる。
 兄様は心底戦争を憎んでいるのだ。国土を荒らし、民の生活をさらに困窮させる、支配階級の垂れ流す害毒として。そして、常々自分を人殺しと貶めるように、命を奪うこと自体も厭うていた。兄様の弱い部分はとても愛しいものだったけれど、いつか自分を死に追いやってしまうのではとも思ってしまう。
 人を殺し続けることでまともな感覚を失い、やがてそれが快感に変わる──そんな人間は多い。けれど、悪意や狂気に逃げるには、兄様の心は強すぎた。清廉で高潔で真摯すぎた。そして、純粋で美しいその心は、一度亀裂が入れば粉々に砕け散るように思えた。
 誰にも弱音は吐けない。王の迷いは臣民に広がるのだから。一番近くにいる私にさえ、悩んだり苦しんだりする姿は見せてくれない。私は守るべき妹なのだから。それでも、冷徹な魔剣士の仮面の奥で流れる血の涙を、私だけは知っていた。
 行かないでと何度すがりつきたくなったかわからない。けれど、それは兄様を困らせるだけだ。兄様はどんなにつらくても、どんなに嫌っていることでも、それが義務なら絶対にやり遂げる。兄様にしかできないことだから。多くの人に望まれているから。彼らの生活がその双肩にかかっているから。──だから、私も自分にできる精一杯で兄様の助けをするだけだった。
 いつしか兄様は大陸最強と呼ばれ、獅子王の異名を世界中に轟かせていく。ひたすら兄様に無事でいてほしかった私は、もうその名声を誇りには思えなくなっていた。それに私は、国の外まで届く評判よりずっと素晴らしい、兄様のほんとうの良さをたくさん知っていた。ただ、獅子王の名が抑止力となって無益な戦争が終わればいいと思った。兄様もそう願っていたはずだ。
 帝王学の一課程として外交折衝についても学んでいた兄様は、弁舌に長け、機知に富み、胆力も据わった、第一級の交渉手腕も身につけていた。その能力は、それまでも連合内部の不穏分子を説得するのに活かされていたけれど、兄様の獅子奮迅の活躍で甚大な損害を被ることになったヴェルダンとトラキアも、再三の勧告にようやく応じる時がきた。
 ヴェルダンは野心家の王子たちが独断で兵を起こす他、食いつめた蛮族が武装しアグストリアになだれこむ形で衝突を繰り返してきた。兄様は不戦条約を結ぶにあたって、温厚なバトゥ王を頂点とした国家体制の強化に協力し、王子たちは辺境の城に追いやりその兵力を削いだ。国境沿いの荒れ地に暮らす者たちは、アグストリアの領土に難民として受け入れることが決まった。
 トラキアからはその主戦力である竜騎士団が頻繁に飛来し、アグストリアは組織立った略奪行為を受けていた。戦略の一環といえば聞こえはいいけれど、やっていることは山賊と変わらない。厄介なのは、それが国ぐるみで行われている主要産業である点と、竜の飛行速度と持久力にものをいわせ大陸の真反対からやってくるため、アグストリア側には報復手段がなく、不定期な侵攻を防戦するしかないことだった。
 ただし、トラキアの蛮勇に連合が悩まされたのも兄様が戴冠する前の話だ。兄様は上方から降り注ぐ槍に対抗して、弓兵部隊と魔道士団を諸公から借り受け、彼ら一人一人をクロスナイツが守る陣構えで防衛線を張った。さしもの竜騎士たちもクロスナイツを破ることはできず、飛び道具の一斉掃射によって、被害の大きさは徐々にトラキア側に傾いていった。
 兄様がただの戦争屋と違うところは、自分と同じく神器の継承者であるトラキア王トラバントを、その人間性から俯瞰していたことだった。トラキアは常に隣国と緊張状態にあるため王自らがアグストリアまで乗り込んでくることはなかったものの、国家の誇りとやらに傷を感じれば、いつ天槍グングニルを握って現れるか知れない相手なのだ。王同士が軍を率いるとなれば、戦争の規模が拡大するのはもちろん、最悪どちらかの神の血統が喪われかねない。兄様は両国の力関係を計算し、トラバントが参戦してくる頃合いで一つの提案を行った。それは、トラキアへの定期的な経済支援を行う代わりに、有事の際には傭兵として救援を請うというものだった。兄様が呈示した額は多いものではなかったけれど、傭兵国家を標榜し、敵味方の決は金次第と公言するトラキアは、獅子王が守るアグストリアで今後予想される被害と利益を秤にかけ、その申し出を受け入れることにした。兄様は総力戦となる前に、敵国の面子を立てる形で協定を結んだのだった。
 交渉の席から帰ってきた兄様は珍しく喜びをあらわにして、私を抱え上げて笑った。最終的に戦いによらず事を収められたのがよほど嬉しかったらしい。私も嬉しかった。久しぶりに抱いてもらったこともだけれど、もう兄様は戦わなくていいのだと思うと、涙が出るほど嬉しかった。
 その日私たちは一晩中語り合った。兄様は少年のように目を輝かせて、目指す理想の国のことを話してくれた。それはほんとうに夢のような世界だった。私は、兄様ならどんなことでも実現できると思った。兄様が創る国で、兄様とずっと一緒に暮らしていきたいと、私は強く願っていた。
 兄様の戴冠から一年で、アグストリアに平和が訪れた。内紛の種は残っているし、周辺国との盟約はいつ破られるかわからない。一時の平穏に過ぎないことは誰もがわかっていたけれど、兄様にとってようやく訪れた休息には違いなかった。

 兄様はなんだか楽しそうに仕事をするようになった。静かな佇まいで昼夜問わず矢継ぎ早の指示を出す兄様は、文官にとっては恐ろしい上司──というより、体力の底知れない、理解を超えた生き物だったから、それとわかるのは何人もいなかったろうけれど、私にはずいぶん上機嫌に見えた。
 兄様は職業軍人以外の兵役を廃止して、彼らを元の生業に戻すことで農林水産業を活性化させた。彼らへの資金援助は、縮小した軍備を武器商人たちに高値で買い取らせて賄った。慢性的な戦争状態で偏っていた市場が正常化され、国力はみるみるうちに回復していった。
 内政に専念しはじめた兄様は、常勝不敗の軍神として兵たちの歓呼を受けていた頃より、遥かに活き活きしていた。どんなに忙しく働いていても、戦時中よりはずっと楽になったようだった。代わりに仕事の増えた文官たちは目を血走らせて駆けずり回ることになった。
 もちろん、度重なる出撃要請から解放されたといっても、日々の鍛練や軍事演習まで欠かすことはない。兄様は嫌戦家とはいえ、闘争本能は種を進化させ、文明を発展させてきた必要悪なのだと承知していた。それでも、無益な戦いを避けることに人の人たる意義があり、人類の叡智はいずれ戦争を根絶させると信じていた。理想を求める兄様は、その稀有な力が平和の維持に役立つよう心を砕いていた。
 その異常な勤勉ぶりに畏れおののいた重臣たちは何度も休養を勧めていたけれど、兄様は責任感のかたまりで、怠惰な生活にはむしろ耐えられないという変人だから、そんな愚申をする者はうず高く積まれた書類の整理を延々手伝わされるのが常だった。国が豊かになっていく様子を楽しむ、というのが、戦場で魔人とならざるをえない兄様なりの休暇なのだった。
 想い人と毎日顔を合わせられる生活をようやく取り戻した私はというと、もう兄様の部屋や執務室をむやみに訪問することはなくなっていた。用もなく会いに行くのは一日一回だけ、口実をもうけて顔を見にいくのも一日二回までと決めて、私はきちんとその戒めを守った。兄様は食事は必ず一緒にとってくれるし、何かにつけて私のために時間を割いてもくれる。多忙な兄様と付き合うなら、それだけで満足しなければいけなかった。もちろん、子供のようにべたべたまとわりつくことも、朝晩の挨拶やお出かけ前後の接吻をするとき以外は、ない。
 私自身、学ぶことは山ほどあった。兄様の命が懸かっているのだからと、戦時中から引き続き聖杖の練度を上げていた。兄様の一生の仕事なのだから、政務について勉強する意欲も充分にあった。
 兄様にしてあげられることは何なのか、私はいつも考えていた。兄様のために役立つ力がほしかった。私の将来は兄様抜きには考えられなかった。兄様が望むなら、体も心も命も魂も、私のすべてを差し出すつもりだった。けれどそれは、そのまま私の願望でもあった。兄様が欲しい。体も心も命も魂も、兄様の全部を私のものにしたい。
 兄様が無事でいてくれさえすれば、もう何もいらない──そんな殊勝な決意をしていたのに、当面の危機が去ってしまうと、結局さらなる幸福を求めてしまう。生きている間に悔いが残らないよう愛し合いたい、と。兄様と少しだけ距離をおいたのも、兄妹の優しい触れ合いでは満足できなくなって、なんとか妹の立場から脱却し、大人の女性として見てもらえる人間になりたかったからだ。
 嫉妬や劣等感も湧かないほどに優れた、私の兄様。伝説の中でしかお目にかかれない、物語の主人公のような兄様。そんな人が、私を対等に扱ってくれる。ひとりの人間として尊重し、一番近くにいさせてくれる。大切だと、必要だと言ってくれる。そんな特権を享受しているというのに。人の欲には果てがないというけれど、私はまさにそれを実感していた。
 毎日最低二回ある兄様との挨拶──数秒の軽い抱擁の中、私はいつも意識して大きくゆっくり息を吸っていた。そこに漂うのは匂いというより香りだった。私が昔安心して包まれていた空気は、危険な陶酔で頭をくらくらさせる、かぐわしい媚薬になっていた。兄様の顔が近づいてくる段には思考がほとんど飛んでいた。その唇が額に触れると、あっというまに足の爪先まで官能が伝わって、全身が溶けてしまいそうだった。
 兄様と契りたかった。心だけでなく、体の深いところまで重ね合わせて一つになりたかった。自分が異常であることもその禁忌も自覚していたけれど、兄様さえ認めてくれるなら、その秘め事に大禍はないはずだと思っていた。大好きな兄様によこしまな衝動を抱いてしまう自分を責めたこともあったけれど、ここに至っては、それが私たちの愛を永遠のものにする誓いの儀式になるはずだと信じていた。
 もう私の気持ちは純粋ではなかった。兄様のすべてで愛してほしい。撓めた激情の堰を切って、その奔流に私を呑みこんでほしい。内に隠した牙で犯し傷つけてほしい。──私はその時を、怖れながらも切望していた。
 私は毎日、それほど長くない逢瀬の間、隠すつもりのない情愛と、尽きることのない想いと、抑えきれない欲動をもって兄様を見つめていた。兄様への愛を貶めるのは嫌だけれど、それは痴情と称されるべきものだと認めざるをえない。兄様が一番喜んでくれる話題は私に関することで、この頃の私の内面はさすがに口には出せなかったから、活気に溢れた城下町や緑を取り戻していく景色など、兄様が丹精している仕事の成果を、私はやけに熱っぽい表情で話すようになった。
 兄様の妹想いも尋常ではないけれど、それはかろうじて兄妹愛の範疇ではあった。恋人としての甘い言葉をくれるわけでもなく、私への触れ方も兄妹の親愛表現の域を出ず、あくまで理性的な距離を保っている。二人きりのときだけ無意識にこぼれる笑みはあるにしても、基本的な態度は周りに人がいるときと大差ない。軽薄な恋の囁きなど、もちろん兄様に期待はしないけれど、自分の想いがはちきれそうなほどに育ってしまうと、昔と変わらないその振舞いはどうしても冷たいものに思えてしまう。
 そう──自分に性の欲求が芽生えてからは、兄様の謎が相当深まることになった。私を狂的に愛しているくせに、もっと近づきたいとか触れたいとは思わないのだろうか。肉親の間には性の接触を回避する本能があるらしいけれど、私たち兄妹に限ってはそれも当てはまらないはずだった。幼年期はともかく、今の私たちを結びつけているのは理性による部分が大きいし、そこから培ってきた愛情は、本能などより遥かに強いのだから。自己弁護するつもりはないけれど、私の恋心が肉欲にまで高まったのも、男女の愛を得るにはそこを越えなければいけないと、考えた末の結論が下地にあるからだ。
 さすがの兄様も、本物の神様や天使でもあるまいし、生まれながらに欲望を超越しているということはないはずだった。一度だけ熱情を告白してくれたあの日には、四肢を撓めて獲物を狙う獣のように、静かな激しさで私を求めていたのだ。今にも襲いかからんばかりだった兄様の言葉には、性的な仄めかしすら含まれていた。あれが兄様の思春期の迷いだったとは思えない。あそこまで明確な意志を、迷いと呼べるだろうか? 兄様は決して生きる道を曲げないから、今もあの狂恋を褪せることなく抱きつづけているに違いないのだ。
 途方もない向上心を満たすことで、欲望が残らず昇華されているのだろうか。生真面目などというものではない。禁欲とも違う。長年心掛けてきて、今やそれが常態となっている鋼の自制心。常識では考えられない有りようを、兄様は特に意識する様子もなく自然にこなしていたのだ。
 そんな兄様の愛の結論とは何なのだろう。たとえ心の奥底にどんな欲望を秘めているとしても、大切な妹姫を穢すことは絶対しそうにない人。ただし今の兄様なら、他でもない私が望めば、体の一番深いところに一生消えない印を刻むことさえしてくれるはずだった。彼に動いてもらうには、私のほうから浅ましく迫るしかないのだろうか。
 妹の渇望など一目で読みとれるはずの兄様を押し留める枷は何なのか、私は考える。
 肉親という絆は、生を享ける前から完成していると兄様は言った。その絆にのみ依存して生きようとするのは、自身の可能性を閉じこめることだとも。
 たしかに、兄様への私の気持ちを、城のほとんどの人間は幼児性の発露としか受け取らない。彼らは兄様に侍(はべ)る私を見るたびに『大丈夫かこの娘は』というような呆れ顔を向けてくる。兄妹仲の良いことが微笑ましい年齢でもなくなった今、私たちの関係は進歩のない、精神の自立を阻むものだと傍目には映るのだ。
 兄様以外に肉親がいない私は、彼らの嫌悪感は想像するしかないのだけれど、近親愛を忌まわしいものとする感覚は普遍的で、人類共通といっていいものらしい。肉親とは結婚できないという、世界で最も広く執かれている禁制を鑑みてもそれは明らかだ。血の繋がりを持つ者だけに許される心、自分に近しい者しか容れない精神──それを望ましくないとする、根深く固着した観念が彼らにはある。
 私たち兄妹の想いにも、眉を顰める人がいるだろう。罵声を浴びせる人がいるだろう。けして認めない人がいるだろう。──異分子は共同体から石もて追われなければいけないのだ。たとえそれが王だとしても。
 それでも──私たちがほんとうに必要とし、心から愛せるのはお互いしかいない。私は兄様を完璧には理解できないけれど、それだけは確かだ。兄様が王の義務抜きで気づかい、無条件の愛情を注げるのは私しかいない。兄様の心身を支え、癒すことができるのも私しかいない。
 私は兄様の生き方に共感するから努力精励できる。兄様がいなければ、私はもっと怠惰な毎日を送っていた。兄様の正しさは誰もが認めるところなのだから、それを一番の指針にして悪いことはないはずだ。
 兄様は私が生まれて初めて認識した異性であり、その邂逅は私の原体験だった。ずっと、唯一の運命の人だと信じてきた。誰よりも近しい心と体をもつ、兄妹という絆が何よりの証だ。最初の人の許に留まることが罪となるのなら──永遠を求め、変化を拒むことが罪となるのなら、私は誇りをもってその罰を受けようと思う。最も好ましい人から離れ、外に拠り所を求めることが道徳にかなうというのなら、喜んで悪に堕ちようと思う。傍にいてくれた時間も、血の繋がりも、すべてを含めて兄様を愛しているのだから。
 兄様もまた、そんな私よりずっと強い覚悟で愛してくれているはずだった。俗人に何を言われようと、泰然として自分の道を貫ける人でもある。情熱だけで安易に契るわけにいかないにしても、兄様があと一歩禁忌に踏みこんでくれない理由が、私にはわからなかった。
 いつになったら兄妹の垣根を越えられるんだろう。兄様はこれから私とどうするつもりなんだろう。一度きちんと話し合わなければと、そんな焦燥にかられてもいたけれど、想いの丈をはっきり打ち明けてしまうと後戻りはできないのだし、そのうえで兄様に拒絶されるかもしれないと思うと、怖くて何も言い出せなかった。私は世界中から非難されても耐える自信はあるけれど、兄様に避けられるのだけは嫌だ。
 兄様が動かないのなら、まだ時期ではないのだとも思えた。納得はできなかったけれど、たしかに私はあらゆる面で未熟だったし、とにかく兄様の心がわからない以上、自分の成長を待ちながら、心身を鍛えながら、我慢して待つしかなさそうだった。そのときが来れば、一番望ましいやり方で契ってくれるに違いないのだから。兄様は私を苦しめることも多いけれど、それ以上の幸せをくれる人なのだと、それだけは絶対に信頼できた。
 兄様を見つめる時は、私への欲望の片鱗がどこかに表れないかと心待ちにするようになった。兄様の鉄仮面は年期が入っているけれど、生まれてこの方ずっと愛してきた私は、どんな感情の機微も、ほんの一瞬の表情さえも見逃さない。
 兄様は期待している熱情を表さない代わりに、いつもは見返して微笑んでくれる顔を、時折ひどく悲しそうに伏せることがあった。愛欲に潤んだ瞳の妹姫を情けながって、というわけではなく、その翳りからはもっと深い絶望や、悲愴のようなものが感じられた。愛染や狂恋よりなお強く心を覆うもの──私はそこに、私たちが一線を越えられない理由を見るような気がして、兄様にそんな表情が浮かぶたび、会話を不自然に途切れさせてしまうのだった。より凝縮された時間の中、私たち兄妹は嵐の前の凪のような、静かな緊張を抱いて過ごした。
 どうしてこんなに綺麗でいられるんだろう──落胆しながらも、私はつくづく思っていた。容姿や、鍛練の結晶である肉体、揺らがない意志とその正しさなど、誰の目にも明らかな美のことではない。微かに歪んだ顔や、兄様自身は忌避するだろうその弱さすらも、兄様はすべてが美しかった。

 満たされないまま昂りつづける心身を抱えて、体の奥からどうしようもなく湧きあがってくる疼きに耐える、そんな日々がゆるゆると続いて──。
 不変であることを願った私の気持ちは、より強く、より激しく兄様を求める、ほとんど暴力的なまでの愛に変化を遂げていた。彼を兄としても男としても愛することで、恋情も執着も、その密度も質量も、たぶん普通の恋人の倍になっていた。しかもその想いが禁忌であるために、激しい情愛の炎はさらに燃え盛るのだった。一人の男性を心から欲するなら、もうそれまでの優しい関係を続けることはできないのだと、今さらながらに私は気づいた。
 兄様が一瞬でも隙を見せれば、それは私を受け入れる合図なのだと勝手に決めていた。一気呵成に攻めこんで私のものにしてやるつもりだった。まるで戦いだった。普段の会話すら、断崖でダンスを踊るようなものだった。ここまでくると楽しくなってしまう。ほんとうに、兄様と付き合っていると退屈しない。さんざん焦らされた挙句、「こんな危なっかしい関係も悪くないかも」などという被虐愛まで芽生えていたから、もう私という子は救いようがなかった。
 そして兄様はあくまで優しい兄様だった。断言してもいいけれど、兄様は私以上の欲望に耐えていたはずだ。なのにその様子は、まるで私だけが想いを募らせているかのようで、私たちの間にたゆたう奇妙な空気の一要素となっていた。きわどい言葉をぶつける私を傷つけないよう受け流し、躁鬱が激しく不安定だった私の心を──その原因の大半は兄様なのだけれど──丁寧に包みこんでくれた。
 その日までは。
 その晩、夕食の席にやってきた兄様はひどく憔悴していた。今にも倒れそうだった。私ですら初めて見る弱々しい有様に本気で心配になって、兄様の頬を掌で包んだ。冷たい。
「お顔の色がすぐれないみたい……今日は早くお休みになったほうがいいわ。食事はお部屋まで運びますから。この間のお礼に、一晩中看病してさしあげるわね」
「いや……」
 兄様はさりげなく身を引いた。「病み上がりに無理をするな。食事も、今日はいい。休む前にラケシスの顔を見にきただけだ」
「そう……」
「おやすみ、ラケシス」
 兄様はそれだけ言って、行こうとした。
「兄様っ?」
「……何だ」
「何だ、って……」
 いよいよ兄様はおかしい。顔を見にきただけと断っているのだから、もっとお話ししてとは言わないけれど、いくらなんでも素っ気なさすぎる。その上、長年の習慣まで破るつもりだろうか。就寝前の口づけは?
 とうとう来るべき時が来たと思った。私は意を決して兄様に向き合った。
「ごめんなさい。最近の私は、はしたない悪い子だって、自分でも思うもの。私、エルト兄様が嫌がることはしません。はっきりおっしゃって。私……迷惑ですか?」
 主旨は明確にしなかったけれど、今さら言うまでもない。視線だけで露骨すぎるほどだ。兄様の答によっては、きっと私は生きていられないと思った。
 命に関わる質問だと感じ取ったためか、兄様は真剣に言った。
「お前からの愛情はいつも、天にも昇る気持ちで受け止めている。俺はラケシスを誰よりも尊敬しているのだから。誇りにすることはあっても、迷惑になど思うはずがない。ラケシスとは関わりのないところで起きた……問題。そう、避けられない問題、だ。つい先ほどのことだったので、感情が整理できない。自分で決めた道と、理性で覚悟していても、いざ直面してしまうと心がついていかない。俺にとってほんとうに大事なことだから……。心配をかけてすまない。少しだけ時間をくれ。明日になればすべて話す……」
 釈然としない部分はあったけれど、最初の言葉でとりあえず安心していたので、私はにっこり笑ってみせた。
「はい。待ってます。でも、あまり根を詰めないでくださいね。エルト兄様、悩まなくていいことまで背負いこむんですから」
 兄様は私の頭を撫でて、少し逡巡してから、いつものように口づけをくれた。
 私はその感触と芳香の余韻にひたりながら、悲愴美の漂う姿を見送って、兄様をあそこまで苦しめるものは何だろうとぼんやり思った。
 考えるまでもない。その原因は私だ。
 私の喜びや悲しみがすべて兄様のためにあり、私をほんとうの意味で苦しめられるのが兄様だけなのと同じように、兄様の心を乱せるのも私だけなのだ。世界のどこで戦争が始まっても、自国の領内で何があっても、私に危険が及ばないかぎり兄様が冷静さを失うことはない。私とは関わりのないところで起きたといっても、兄様の苦悩の根底にあるのは、やはり私への気づかいだと思う。
 何があったのだろう。明日の兄様の話は、私にも心構えが必要かもしれない。
 不安を打ち消すために『お前からの愛情はいつも、天にも昇る気持ちで受け止めている』を胸の中で反芻し「私はエルト兄様の誇り」と何度も呟きながら、顔をゆるませて歩いていると、重臣たちの会話が耳に入った。
「──だから、よもや一生、妹御と添い遂げるおつもりかと。いや、冗談ではないぞ。陛下の妹思いは度が過ぎている。ご幼少の頃からそれは仲の良いご兄妹だったが、この歳になってもあれでは洒落にならん。ここだけの話、すでに道ならぬ仲ではと──」
 まただ、と思った。この類の陰口は慣れている。体の契りはまだだけれど、そうなりたいという願望も事実あるのだし、道ならぬ仲と言われても仕方ない。城の外でまで噂されているのも知っていた。兄妹にしては仲が良すぎる、あやしい、と。どんなに本人たちが真剣でも、他人に理解されないことはあるのだ。
 とはいえ、こういう話を直接聴くと、どうしても落ちこんでしまう。兄様への想いはほんとうに大切なものだから、何も知らない人たちに踏みこまれて、それが罪であると何度も突きつけられるのは、覚悟はしていても悲しい。私は兄様さえ愛してくれるなら他の誰に認められなくてもいいけれど、そのことで兄様の評判まで落ちているのを目の当たりにすると、自分はやはり迷惑なのだろうかと悩まずにいられない。
 妹姫を女性として愛する──それも、雲上人である兄様には神秘の彩りを添えるとも思うのだけれど。神世の時代には、兄妹婚から始まる国産みの神話や、神の力を降ろすため儀式として冒される血族婚の伝説が数多くある。神の血を引く私たちの交わりは、必ずしもおぞましいものではないと……その考えは甘いのだろうか。
「先日も、訓練中に倒れられたラケシス様を付ききりで看病なさっていたな。あれは、いつまで部屋におられたのだ?」
「陛下のなさる事に半端は無い。無論、ラケシス様が完全に復調されるまで丸一日、一睡もなさらず」
「何と」
 看病というか、それは侍女たちに任せていたから、兄様は傍にいてくれただけなのだけれど。嬉しかった。兄様は絶対に果たさなければいけない義務を除いて、私を一番に優先してくれる。魔力の使いすぎで寝込んでいただけなのに、青ざめた顔で駆けつけてきてくれた。私の無茶を見ると、兄様は自分を責めてしまうから。私が勝手に兄様の力になろうとしているだけなのに、ほんとうに、いらないことまで背負いこむ人だ。
 贅沢を言うなら、せっかくの機会に添い寝してもらえなかったのが残念だ。見回りにくる侍女たちがいなければ、寝台の中に誘えたかもしれない。淫らがましい気持ちだけで言っているのではなく、兄様にもきちんと休んでほしかった。
「書類の山を放って、一日中徹夜で妹にくっついていたと、そういうことか?」
「仕事はラケシス様のお部屋で片づけておられた」
「来客の予定もあっただろう」
「延期」
「……まったく、人間一つくらいは欠点があるものだ」
 私にとってはこの上ない美点だ。私の悪口ならいくら言われてもいいけれど、さっきから兄様をけなすことばかり、もう許せない。一言言ってやろうと、足を踏み出す。
 それが、次の言葉で硬直した。
「だが、これでご成婚までこぎつければ、ノディオン王家は安泰、ひいてはアグストリアに憂いなしというわけだ。さすが、陛下は公私の別をわきまえておられる」
 ──ご成婚? 成婚というのは、結婚することだ。兄様が、結婚? 誰と? ひょっとして、私と? 兄妹でも結婚できるよう法律をいじくったのかしら。エルト兄様、やることが極端だから。たしかに兄様は婚前交渉なんてしそうにない堅物だった。私と契るために国法を私物化してしまったんだ。私以外を愛せないから、そうするほうが私にも国民にも誠実だと判断したんだ。エルト兄様、凄い、素敵。このときを待ってたの。
 続く会話が現実逃避の殻を簡単に突き破った。
「レンスターのグラーニェ姫か。聞かぬ名だが、お美しいのか?」
「十人並」
「何だ。私は大陸中の姫君を吟味していたのだぞ。ラケシス様と並ぶ容姿──とまでは言わんが、せめて国一番の美女という水準でなければ、陛下は心を動かしてはくださらぬとばかり。……どうも、あのお方のことはよくわからん」
「神にも比肩する英雄の御心を読み取ろうなど、僭越の極み。肖像画もご覧にならず、特徴も家柄も聞かれず、その場で二つ返事にて了承された。だが陛下が明言された以上、それは決定事項と見てよい」
「それは存外簡単にまとまったものだ。早世された先代のこともあるし、陛下のご縁談に関しては悩みの種だったが。となると、早いうちにラケシス様の嫁ぎ先もなんとかせねば。もう年頃だというのに、いまだに兄君から離れようとせんからな」
「無理もないこと。あのような殿御の愛を一身に受け、誰が平静でいられよう。史上絶後であろうお美しいご兄妹──その連帯の強さも、俗人には窺い知れぬ」
「残念ながらこの世の大半を占めるのは俗人なのだ。その代表として言わせてもらえば、花嫁の前でもあの調子でいられてはかなわん、という思いがどうしてもな」
「ラケシス様の処遇は陛下にお任せするが最善と見る。悪いようにはなさるまい」
「まあ聞け。陛下の刎頚(ふんけい)の友であられるシグルド公子なら──」
 途中から彼らの会話は耳に入っていなかった。私はへたり込んでいた。彼らが行ってしまっても、身動きひとつできなかった。
 兄様が他の女と結婚なんて、あるはずない。頑なに思いながらも、兄様の思考の筋道は不思議なほど理解できた。兄様が愛せるのは私だけだ。結ばれてはいけない、絶対に結婚できない、妹だ。けれど兄様には王として、妻を娶り、次世代に血を遺す義務がある。私と違って、嫁かず後家の決意など通らない。自分で妃候補を物色することは無いにせよ、兄様は義務を先延ばしにする人でもまた無いから、重臣の示唆があれば即決するはずだ。私以外なら誰が相手でも同じなのだから。乱暴な話だけれど、容姿も性格も家柄も考慮に入れないのはたしかに兄様らしい。
 戦争も内政も一段落し、婚礼の時期としては申し分ない。兄様自身、適齢期といえる。なのに兄様は社交の場でも姫たちと距離をとり、相変わらず私以外の女性に親しもうとしなかった。それは社交性の欠如ではなく、難しい年頃の妹を刺激しないための配慮だったのだけれど、どちらにしても少々病的だと重臣たちが気を回すのも無理はない。
 英邁な王には世継ぎが望まれる。当然のことだ。今まで思い至らなかったほうがおかしい。昔から私はこうだ。兄様に夢中で周りが見えなくなる。兄様を手に入れることや、自分の想いを正当化することばかり考えていて、他は無意識に思考の外へ追いやっていた。
 兄様のふさぎようにも説明がついた。今の兄様は、公人としての立場と、私人としての情に引き裂かれている。妻帯すれば、これまでのように私と二人きりの時間を毎日持つわけにはいかない。避けられない義務とはいえ、あれだけ強く結びついてきた関係を、自分のほうから壊すことになる。純粋に兄として、私の精神を危ぶんでもいるだろう。あの優しすぎる人は、どうしようもない自責の念にかられているのだ。
 公正な兄様は、どんなに善処してくれても、妹を妻と同列以上には扱わないだろう。愛せるはずのないその妻に対しても罪悪感はあるはずだから。そして私は質の悪いことに、兄様の唯一の女性でなければ気が済まない妹なのだ。それは、距離や時間の隔絶以上の決定的な心の溝をもたらすことを、兄様は知っている。
 兄様は私との間に変わらない愛情を保とうと努力するだろう。自分の苦悩は一晩かけて持ち前の精神力で抑えこみ、明日の朝には憔悴など露ほども見せない元の兄様に戻っているはずだ。狂乱する私を柔らかく抱きしめ、冷静に真摯に言葉を尽くし、馬鹿な妹が聞き分けるまで諭してくれるだろう。
 そんな兄様を、私は。
 私は。
 それでも私は、エルト兄様を、誰にも渡したくない。
 この世のどんな女だろうと、私以上に兄様を愛せるはずがない。私は誰よりも長い時間を兄様と過ごしてきた。話せば尽きることのない思い出がある。私は兄様だけを見つめて、兄様のことばかり考えて生きてきた。兄様のために生きてきた。兄様の強さも弱さもみんな知っているし、そのすべてを愛してきた。兄様の無器用な優しさを理解できるのは私しかいない。兄様の微かな表情の変化から感情を読みとれるのは私しかいない。兄様が時折見せる弱さを包んであげられるのは私しかいない。私は非難や中傷に負けず、兄様を愛し続けてきた。苦しかったけれど、耐えてきた。愛してはいけない人だったけれど、愛さずにはいられなかったから。
 そんな私を差しおいて、兄様と結婚する女がいる。誰にはばかることなく兄様と契ろうとする女がいる。
 先ごろ結婚したエスリンのことが頭に浮かんだ。ずっと好きだった人と結ばれたエスリンは幸せそうだった。私も自分のことのように嬉しかった。結婚できなくてもいいから、私もあんな顔で兄様の隣に立ちたいと思った。久しぶりに明けすけなく女同士の話をして、夫婦の営みについても教授をせがんだら、エスリンは恥じらいながらも、その時のことを事細かに教えてくれた。どんなふうに触れてもらったか、どんなふうに愛してもらったか。私もいずれ兄様とそうなれるのだと思うと、話を聞いているだけで目まいがするほど幸せだった。
 同じものから生まれた私たちなら、他のどんな恋人よりも相性がいいんだろうなと思った。服を脱いでじかに抱き合えば、長年惹かれ合ってきた心と同じで、私たちの肌はぴったりしっとり吸いつくはずだ。互いの体の気持ちいいところも、兄妹なら直感で理解し合えるはずだ。
 兄様がどんなふうに愛してくれるか、私は何度も想像してきた。初めてのときは私が怖がらないように、ずっと頭を撫でていてくれるだろう。私はそうされるのが一番安心すると、兄様は知っているから。私たちはゆっくりと体を重ね、一つになる。ずっと待ち焦がれていた瞬間。兄様に純潔を捧げる喜びは、きっと痛みよりも遥かに強い。兄様の純潔を奪う悦びは、きっと羞恥よりも遥かに激しい。私は兄様になら壊されてもいいのに、兄様はひたすらに優しくて、私の小さな体に負担がかからないよう気づかいながら動いてくれる。けれどその瞳の中には、私が初めて見る、愛と理性と欲動の渾然とした意志があるのだ。私は何も考えられない至福の中でただ兄様が愛しくて、自分のすべてを委ねながら、力のかぎり兄様にしがみつく。事が終われば兄様は、包みこむように私を抱いて、私が眠るまでずっと、やっぱり頭を撫でつづけてくれるだろう。
 大好きな人に愛され尽くした私は、うっとりと眠りにつく。夢の中でも兄様は傍にいて、幸せはずっと続いている。目を覚まして最初に見るのも、もちろん兄様の顔だ。そして、どちらからともなく口づけを交わす。深く、優しく、柔らかく。唇が離れると、私は少し照れくさくなって、兄様の胸に顔をうずめ、ごにょごにょと朝の挨拶をする。そんな幸せいっぱいの光景。愛の儀式が終わった聖なる朝。
 それを、他の女が。
 兄様を抱きしめ、兄様と密着し、兄様の美事な筋肉となめらかな肌を感じながら、兄様と舌をからめ、兄様を味わい、兄様の繊細な指先で髪を耳を項を額を瞼を頬を鼻を唇を舌を喉を胸を肩を脇を腕を掌を指を腹を臍を背を臀を腰を腿を腓を蹠を性器を優しく触ってもらい、兄様の官能的な舌で耳を項を額を瞼を頬を鼻を唇を舌を喉を胸を肩を脇を腕を掌を指を腹を臍を背を臀を腰を腿を腓を蹠を性器を丁寧に舐めてもらい、兄様を受け入れ、兄様に貫かれ、口で手で胸で臀で腿で膣で兄様を包み、一番深いところに迎え入れ、世界一強く世界一賢く世界一清らかで世界一優しく世界一美しく世界一愛しい好きで好きで好きでたまらない兄様と完全な合一を果たし、兄様に責められ、兄様を高め、兄様との愛の絶頂の中、兄様の精を胎内で受け取り、兄様に愛された証を身に宿し、未来に命を繋げる幸福を兄様と共有する。
 それを、他の女が。私以外の女が、そんな幸福を享受する。その価値も知らないくせに。そんなことを認める世界は間違っている。ありえない。あってはいけない。
 エルト兄様。私を棄てるの? 今まで心の支えにしてきた妹を、一方的に。それは私たちの間では、裏切り以外の何ものでもないわ。そんなことさせない。絶対に許さない。私は兄様を放さない。絶対に絶対に絶対に。
 気がつくと私は兄様の部屋の前にいた。手には短剣を持っている。これからすることに罪悪感はなかった。何も怖くなかった。
 私は扉を開けた。広い部屋に一人きりで、兄様は机に向かっている。
「ラケシスか……」
 兄様の声にはまだ苦しげな色があった。その意味を知らないままでいればよかった。
 部屋に入り、錠を下ろす。その音で兄様はこちらを見た。
 私は短剣を突きつけた。自分の喉元に。
「来たら死にます」
 兄様はそれだけですべて理解したはずだ。ゆっくりと立ち上がり、そこからは動こうとしない。
「エルト兄様……私は兄様を、心から愛しています」
 兄様の前で綺麗でいられますようにと願って付けていた装飾品を、片手で無造作に取り払っていく。ドレスの止め具を外して、床に落とす。下着から足を抜く。──情緒のかけらもなく脱いでいく。
「ずっと、愛していました。生まれた時から、ずっとです。私の人生で兄様を想わなかった時間は、一瞬たりともありません」
 私はその人に全裸をさらした。
 胸も腰も未熟だったけれど、それなりに均整はとれているし、綺麗だと思う。この体には兄様と同じ血が流れているのだから。髪も肌も瞳も、みんな同じ色、同じものでできているのだから。だから私は自分を好きでいられた。体の手入れをするときも、兄様の金髪に触れるつもりで髪を梳き、兄様の白皙を想いながら肌を磨いた。丁寧に、丹念に。
 なのに兄様は、こんな時でさえ真直ぐに私の目を見つめてくる。ほんとうに憎らしい人。ほんとうに愛しい人。
「兄様は私のすべてです。二つに分かれて生まれてきたことが不思議なくらいに。私のすべては兄様と繋がっているんです」
 私は震える足で兄様に近づいていった。短剣を両手で喉元に構えて。
「この想いのために、私は命を懸けてきました」
 私はあと十歩ほどの間をあけて止まった。兄様が駆けてくるより剣が喉を貫くほうが早い、ぎりぎりの距離。
「私と契ってください」
 兄様は両手で机にもたれかかる姿勢をとった。
「剣を下ろすんだ」
「その前に約束してください。今ここで私と契ると。でないと死にます」
 決して約束を破らない兄様は、微かに身じろぎしただけで、私の求めには返答しない。痛ましげな、つらそうな表情。今一瞬だけ、兄様に緊張が浮かんだ。それともそれは迷いだろうか。
 握った剣に力が籠もる。首筋に血がつたう感触があった。
 唐突に、兄様の両腕が消えた。そう見えた刹那、私の両肩から先に痺れが走った。取り落としこそしなかったものの、剣先に力が入らなくなる。
 あの姿勢は何かを投げるための準備動作だった──そう理解する前に、矢のように距離を詰めてきた兄様に抱きすくめられる。無駄のまるでない美獣の手際。
 疾い。綺麗。惚れぼれする。
 ──この人は私の兄様なの。羨ましいでしょう。この人は私を誰よりも愛してくれているの。ずっと前から。私が生まれた時から。ずっとずっと。兄妹だから。二人きりの、何よりも強い絆で結ばれた兄妹だから。今は裸の私を抱きしめてくれている。血の繋がったこの体を、熱烈に。兄妹だけれど、罪なんて怖れないくらい愛してくれているの。世界を敵に回す覚悟で愛してくれているの。たしかにおかしいと思う。異常だと思う。狂ってる、かもしれない。こんな二人、他にいない。世界に二人きり。二人だけの幸せ。だから……羨ましいでしょう?
 そんなことを思いながら私はわめいた。
「無駄よ。してくれないなら死んでやるから。その手を離したらすぐ死んでやるから」
「この血を……」
 兄様は短剣の刃を掴んでいた。掌から血が零れている。
「この血を流し尽くしてしまいたい……血の繋がりゆえに愛が罪となるのなら。それで赦されるなら、頭を割り、胸を裂き、手足を斬り落としてしまいたい。お前と結ばれるなら、この身が地獄の劫火で灼き尽くされてもいい。だがそれでも俺は、生まれ持った責務だけは放棄できない。……俺とラケシスが結ばれるということは、規範から逸脱することだ。他者を拒絶することだ。外界から排斥されることだ。そしてその窮極は、二人きりで完結する世界を創りあげることだ。人の則を逸した想いに苛まれる者同士なら、そこに行きつくしかない。暗く閉ざされた、しかし二人にとってはこの上なく幸福な理想郷。望ましいからこそ禁止される、誰の心にもある楽園。市井の生まれなら情熱だけで契ることができたかもしれない。たとえ肉親であっても、唯一の愛にまで昇華した心の価値に比べれば、罪の痛みなど何ほどのことがあるだろう。世界からの孤立も畏れず愛を貫く、その覚悟は美しい。心身を苛む苦しみと共に、何ものにも代えがたい無上の喜びが得られるはずだ。だが、俺はそこに陥るわけにはいかない。王とは人の上に立ち、万民の規範となるべきものなのだから。人がその発生以来築きあげてきた“正しいもの”──“法”に従い生きねばならないのだから。自分自身を含めて、この国をより良いものにする義務があるのだから。……俺は五百七十四人、この手で殺した。俺の指揮で死んでいった敵や部下、捨てざるをえなかった弱き民たち──彼らは万を下らない。必要だったから、それをした。俺は奪ってきたすべての命に責任がある。彼らの人生を背負っている。俺はかつて何度もラケシスの中に逃げたが、それはもう許されないのだ。お前を連れて二人きりの世界に逃げ込むわけにはいかない。この道を曲げることはできない。この責任に向き合わねば、ラケシスへの愛すら否定することになるからだ。ラケシスを愛したことも、王であることも、俺が俺として生きていくために避けられなかった定めなのだから。……お前の死は、俺自身の死よりも耐えがたいだろう。お前の死を見るのなら、自ら命を断ってしまったほうが遥かに楽だろう。だがそれを心底から望んでいても、俺は愛のために死ぬことはできない。この身は俺とお前だけのものではないのだから。お前のために死んでやれない。だからラケシス……お前も死ぬな」
 押し殺した震える声で兄様は言い募る。ずっと高いところにあるその顔は、胸に強く抱かれて見えない。ひょっとして、泣いてくれているのだろうか。あの誇り高い兄様が、こんな私のために。
 足元に二つ、俯いた私の視界に入ったものがあった。私の両肩の経絡に正確にぶつけられた、それは。
 そこから、兄様と私が微笑んでいた。
 丁寧に額縁に入れられた、私たち兄妹が並んで描かれた肖像画。その二枚は、士官学校二年目と三年目の長期休暇中のものだった。
 初めて絵の主題になる経験をしたほうは、私の笑顔は少しぎこちなく、無意識に兄様の側に体を傾けている。兄様の視線も、画家にではなく私に向けて、慈しむように注がれていた。
 三年目の夏は、私は勝利者の余裕をもって、嫌がらせのように兄様にしがみついていた。兄様のしかめっ面がおかしい。
 そこは私たちの幸せで満たされていた。今よりずっと無邪気に兄様を好きでいられた、もう返らない日々。
 あの状況で咄嗟に掴めたということは、私が入ってくるまで手に取って見つめていたんだろう。兄様が机に飾っているのは、その二枚とは違う、私一人を描いた肖像画だから。形にした思い出の前で、私と過ごした時間を振り返っていたんだろう。兄様にとっても宝物だったはずなのに、私はそれを投げさせてしまった。
 私の命が懸かっている一連の動作には、兄様の理念からすれば選択の余地はないのだから、そこに緊張はあっても迷いはなかったはずだ。長弓の射程で投げ槍を的中させる兄様にとって、十歩の位置への投擲は、万に一つの失敗もない作業だった。あの一瞬の迷いは、私たちの思い出の品を投げていいものか、他人からすれば下らないようなことを真剣に悩んでいたんだろう。私の兄様はそんなずれたところのある、可愛い、ばかな人だ。
 私は兄様の最大の理解者だという自信がある。なのに、認めたくなかった。兄様は私と契ってくれるつもりがないことを。兄様にとって、王としての信義が、命よりも愛よりも重いことを。
 私は兄様を手に入れられないなら死んだほうがましだと思っていた。たとえ一度きりでも兄様と契ることができるなら、そこで人生が終わってもよかった。地獄に堕ちてもよかった。
 どうしてこんなに求めてしまうんだろう。どうして一つになりたいと渇望してしまうんだろう。兄様は自分に許される限度まで、もうこれ以上は望むべくもないほど私を愛してくれているのに。
 どこまでも真直ぐな人。私に心を捧げてくれた人。誰よりも強く、自分の道を貫きとおす人。
 どこまでも誠実な人。国と民に命を捧げた人。理性と責務を何より優先させ、自分の気持ちを殺すことのできる人。
 いつでも私のお手本だった。兄様のような毅然とした生き方をしたいと思っていた。
 なのに、どうして私は諦めきれないんだろう。兄様はあの幼い日からずっと、一生満たされない禁忌の想いに耐えつづける、その決意を守り通していたのに。そんな強さに私は惹かれていたはずなのに。
 私はもう何も言えなかった。
 私は兄様の裂けた掌に唇をつけていた。兄様の味がした。せめて今、私のために流してくれるこの血だけは自分のものにしたかった。
 その日私は泣きながら、兄様の胸で眠った。
 兄様はそんな私を包みこむように抱いて、ずっと頭を撫でていてくれた。
 夢の中で私は想っていた。兄様が私と契ってくれた未来を。王の立場をかなぐり捨てて私を選んでくれた未来を。
 手を取り合って国を出て、誰も私たちを知らない土地に行く。私たちはそこですべてのしがらみから解放されて、毎日愛し合って暮らす。子供ができたら嬉しい。強くて優しくて賢くて、きっと兄様にそっくりな綺麗な子だ。私たちは寄り添って、いつまでも幸せに暮らす。
 それは、ありえない夢なのだろう。自分の責任を放り出すのは、それはもう私が愛した兄様ではないのだ。それでも私はひたすらに夢想しつづけた。

 兄様が背負う業。振り払うことのできない穢れ。沈み溜り、道を封じ、未来の可能性を狭めてしまうもの。
 兄様が一人殺すたびに、私との間の壁は一段ずつ高くなっていたのだ。兄様が王であるかぎり、その業は際限なく膨れあがっていく。そして、兄様がそこから逃げることは決してない。
 全うできない愛だと知りながら、兄様は私を遠ざけることはできなかった。自分を完全に律してきた兄様が、私への愛だけは消せなかった。無邪気にすり寄る私に対し、欲動を全身全霊で抑えながら、良き兄でい続けてくれた。激情をぶつける私を前に、受け入れることも突き放すこともできず、想いだけを募らせていた。
 どんなに苦しかったろう。禁忌を犯しそれを貫くよりもつらい拷苦に、兄様は耐えていたのだ。
 誰にも秘密に契ってしまえばいい、というものではない。許せないのは兄様自身なのだ。他の女性を娶ることが決まっている身で、添い遂げることのできない妹と、その後は何の責任も持てないのに、熱情に流され禁忌を越える。それは兄様にとって、許されざる背信、唾棄すべき惰弱、憎悪すら抱く悪徳なのだ。
 私があの言葉を聞いてなお、命を懸けて交情を望めば、兄様は契ってくれたかもしれない。けれどそれでは、兄様の心に生涯消えない悔悟が巣食うことになる。愛と信義、どちらが欠けても兄様という人は成り立たないのだ。
 失いたくないと思った。エルトシャンという至宝を世界から奪ってはいけないと思った。
 獅子王エルトシャンとその妹ラケシスは、強く惹かれ合いながら、決して結ばれない二人だったのだ。だから兄様は私を手放すことを──私が普通の幸せを見つけることを、むしろ喜びと共に夢想していた。
 けれど私は、何があっても兄様だけを愛していくと自分に誓っている。兄様がそうであるように、この愛を捨てれば私は私でなくなるのだ。
 兄様はもう、私自身の狂熱から私を守れない。私はこの絶望に自分で耐えなくてはいけない。兄様と同じ拷苦に、私も耐える。私は、強く美しいあの人の妹なのだから。

 戴冠式と同じように、婚礼もあっという間だった。これは絵に描いたような政略結婚で、本人たちの愛情を無視した打算がいろいろ働いていたらしいけれど、私は深くは知ろうとしなかった。とにかく兄様は結婚した。
 挙式の日、私は真っ赤に腫らした目元を化粧で隠して、新郎控え室の兄様に会いに行った。本来は私も接待役なのだから、大勢の客の前で笑顔でいられるよう、心の準備をするための予行演習のつもりだった。
 兄様はすっきりと整った礼装で、挨拶にくる招待客の応対をしていた。私が身につけていた純白のドレスは、兄様の隣にとても似合いそうだった。
 この姿で兄様と並んで、エスリンのように幸せに笑いたかった──そう思うと、また感情の波が押し寄せてきた。挨拶する前に泣いてしまいそうだった。歯を食いしばって必死に耐えた。笑顔の形にしようとした口元は不自然に震えた。初対面の客は何事かとこちらを見るし、城の侍従たちは、兄様大好きっ子のわがまま姫が何をしでかすか冷や冷やしていたはずだ。
 私の様子を見かねてか、兄様は疲労と緊張を理由に人払いをしてくれた。私以外が部屋からいなくなると、兄様は言った。
「無理に出席することはないが……」
 私はぶんぶんと首を振った。
「女性の夢となるような式ではない。人よりも国の繋がりが第一にある、大仰な契約だ。雑多な利害が渦巻く、神の血と王室制度の弊害といえる。俺自身、そんな場所に立っている姿を見られたくない」
「エルト、兄様が、つらい、なら、私も、一緒に、頑張り、ます」
 しゃくりあげそうになるのを堪えながら言った。
 兄様は意外な言葉を聴いたという表情をした。そして、少し息をついた。
「ラケシスの前で自分を偽っても意味がないか……」
 兄様が近づいてくる。私はかたく目をつむった。間近でその姿を見てしまったら、これ以上はもう我慢する自信がなかった。
「グラーニェ姫の人格に失礼だが、たしかに俺にはつらい行事だ。しかし俺は男なのだし、ラケシスが許してくれさえすれば、婚礼を挙げること自体にそれほど心痛はない。その後の生活も、夫としての義務は過不足なく果たせると思う。グラーニェ姫も王族の何たるかを理解している大人の女性なのだから。俺の不安は、ラケシスとの絆が失われないかという一点にあった。俺はお前のそんな顔を見るほうがつらい……」
「式場、行ったら、ずっと、笑顔で……」
「……なら、今のうちに感情を吐き出しておけ。時間は充分にある」
 兄様は私の後ろに回っていた。髪を梳き、乱れたところを直してくれる。髪の中に感じる兄様の手は、悲しいくらいに心地良い。
 兄様はこれからも変わらない愛情をくれるだろうけれど、心の奥まで染みわたるような触れ合いはこれが最後なのだ。今日を最後に、この温もりは失われてしまうのだ。
 私は泣いた。口を引き結んで声は押さえたけれど、大粒の涙がとめどなく溢れた。結婚の話を知ってから毎日泣いてきたのに、まだ枯れていなかったのが不思議だった。
 兄様は夫の役目を完璧にこなすだろう。少年の時分から、大衆が求めるままの華麗な王子の仮面をかぶり、王族としての理想どおり振る舞ってきたように。けれどその中で、私の兄としての顔だけは──私に示してくれた愛だけは、絶対に演技ではなかった。
 兄様に残された最後の自由を、私は守ってあげなくてはいけない。どんなにつらくても、兄様の傍を離れず、その孤独な心を支えてあげなくてはいけない。兄様が私との間に変わらない絆を求めるなら、それを断ち切ってはいけないのだ。
「ありがとう、ラケシス……」
 兄様はただそう言って、ずっと髪を梳いていてくれた。夫婦にはなれないけれど、心は誰よりも通じ合っていると思えた。
 嗚咽が収まりかけると、私たちは一度だけ目を交わし合った。兄様は小さく頷いて、控え室を出ていった。
 私は何度か深呼吸してから、涙を拭いて、自室に戻り、侍女たちに化粧を直してもらって、式場に行った。その間、何も考えないようにしていた。
 後のことはほとんど覚えていない。もう絶対泣かないと、それだけが頭にあった。油断するとまた号泣しそうになるから、相変わらずの強張った笑顔で、肩を震わせ手を握りしめて、必死でその場にいつづけた。不審な目で見られたかもしれないけれど、私にはそれが精一杯だった。

 兄様に迷惑をかけない範囲で、兄様が望むままの妹でいる。兄様の苦しみをできるかぎり取り払って、少なくとも私が兄様を悲しませることのないよう、何をするにもよく考えてから。それが、これからの生活で最低限心がけておくべきことだった。
 それに際して、自分のできる事とできない事を把握しておくのはとても重要だ。
 たとえば、私は義姉とはあまり会わないほうがいい。私は感情を抑制するのが下手だから、にこやかに会話しようとしても不自然な態度になるだろうし、何かの拍子で喧嘩してしまうと、ひょっとしたら刃傷沙汰にまで発展するかもしれない。
 そして、重臣たちがしつこく言ってくるような、他の男に嫁ぐという選択もありえない。それは私の大前提に抵触する、今さら考慮するまでもないことだ。兄様にとって、私が幸せでいることは国事と並ぶ最重要事項であり、私の幸せは兄様の傍にしかないのだから。
 ただ、士官学校時代と同じくらいの距離をとるのは、これから兄様と付き合っていくうえで有益かもと思えたので、私だけ離宮に移るべきかしらと訊くだけのことはした。兄様の答は「お前がそれを望むなら。だが俺の気持ちとしては、この時期だからこそラケシスに傍にいてほしい」というものだったので、それも却下したのだけれど。
 兄様の前ではいつも明るく元気に振る舞おうとした。私の不慣れな演技は、かえって兄様に痛ましい思いをさせたろうけれど、うじうじと沈んだ顔を見せつけるよりはましだ。
 心がつらくなった時は、何も考えず訓練に打ち込んだ。日課は増やそうと思えばいくらでも増やせる。すべてを忘れるほど疲れきっていれば、兄様が他の女と交わる悪夢にうなされることもなく、ぐっすりと眠れた。
 道を見失いそうになったら、こんなとき兄様は私にどうしてくれたろうと思い返した。私が心掛けは、いつも兄様が私を包んでくれている気づかいと同じなのだから。
 悲しかったけれど、これが兄様と一緒に創る、私たちにとっての正しい愛の形なのだと信じることで、私は幸せになれた。生まれてから今が一番、真実兄様を愛していると思えた。私は満足だった。
 もちろん兄様も、「傍にいてほしい」と言ったなりの責任はとってくれる。新婚生活に私という邪魔者がいても破綻しない生活様式を整えて、特に相談しなくても私の意志を汲みとり、私が義姉と出くわさないで済むよう、何をするにもそれとなく気を配っていた。
 兄様はそのまま自室で起居し、義姉には国王夫妻用の部屋を一人で使わせた。彼女は病弱なので、政略結婚で結ばれた夫と同衾していては心労になるだろうし、いざというときは広い間取りに医師団が常勤できるからというのが表向きの理由だった。まあ、妻の身を慮ってというのは事実だったと思う。兄様と同じ部屋で寝起きしている女には、どうしても憎悪や殺意を抱いてしまう妹がいるわけだから。
 そして当たり前のように、兄様の私への態度はそれまで通りだった。まったく、何があろうと呆れるほどに変わらない人だ。兄様はあらゆる事態を想定したうえで、自分が続けられる有りようを決めていたのだと、あらためて感じさせられた。
 私のどうでもいいような話に微笑んで、手の届く位置にいれば頭を撫でてくれる。理性的で優しい距離を保ち、けれど恋人でも妻でもない女性に対するにはずいぶん親密な関係。私のほうから拒絶しないかぎり、兄様はその接し方を変えるつもりはなさそうだった。
 私と顔を合わせたり別れたりする際には、たとえ人目があっても、軽く抱きしめて額に口づけをくれる。この程度なら、貴族の兄妹としては普通の習慣で、何もおかしいことはない。見たくないので確認したわけではないけれど、妻にも疎外感や不平を抱かせないよう、私と同じように接しているはずだった。
 私はもちろん兄様の愛撫を受け入れつづけた。ただ、陶酔に至るような昂揚は、心身が頑なに拒んだ。兄様は清らかな兄妹愛を望んでいるのだから、私もそのつもりで愛欲を抑えなければいけなかった。
 私たち兄妹はとても努力していた。ともすれば噴き出しそうになる恋情を必死に取り繕って、表面上はあくまで仲の良い兄妹として、危うい均衡を維持しつづけた。
 義姉はそんな私たちをどう思っていただろう。何も気づかなかっただろうか。
 少なくとも兄様の自制の言行は、私以外の人間がそれとわかるようなものではない。長年城に仕えてきて、私たち兄妹の仲をあやしんでいる重臣や侍従たちですら、あの高潔なエルトシャン王がまさか、と最終的には疑念を打ち消していた。付き合いの浅い義姉ならなおさら、兄様の清廉さに一片の曇りも見つけることはできなかったはずだ。ただ、私の落ちつきのなさや不可解な挙動を見て、『おかしな妹がいる』くらいは思っていたかもしれない。
 義姉はこれといった特徴がなく、印象に残りにくい人だった。私が彼女をまともに見ようとしなかったのもあるけれど、兄様の隣でその個性はますます霞んでいた。口さがない侍女たちは、新婚の花嫁よりその良人のほうがずっと美しいと噂していた。
 私が義姉について知っているのは、遠国レンスターの出身で、病弱ということくらいだった。彼女とは滅多に顔を合わせないし、まともに会話したことは一度もない。同じ城で暮らす義理の姉妹としては疎遠もいいところだった。
 当然ながら、それは全面的に私のせいだ。兄様の細かな心配りをすべて無に帰すほど、私はあからさまに義姉を避けていた。その姿が遠目に見えればすぐ逆方向に離れたし、不幸にもはち合わせになって何か言いかけられた時も、私はぺこぺこと顔を下げながら早足で通りすぎた。講師の都合や訓練を口実にして、食事の時間も兄様たちとはずらした。
 義姉はそんな私と折に触れて親睦を深めようとしていたけれど、兄を取られた妹の反発にしても異常な頑なさに直面し、態度を軟化させるのが無理だと気づくと、義妹をそっとしておくほうを選んだ。そして私ができるだけ兄様と一緒にいられるよう、城内の散策をやめて、食事も自室でとるようになった。義姉が譲歩してくれたおかげで、私はそれまで覚悟していたような、一生寂しい食事をとるという苦行を続けずにすんだ。たぶん、彼女は優しい女性だった。出会い方が違っていれば好きになれたかもしれない。
 義姉がどんな人なのか、何に興味があるのか、兄様とはどういった話をするのか、私は何も知らなかったし知りたくもなかった。獅子王エルトシャンの花嫁という、世界中の女性が羨む地位を、彼女がどう感じていたのかさえも。ただ、公式の場で仕方なく同席したときに、礼儀正しく互いを尊重し合う国王夫妻を見るだけだった。それまでの私の居場所を、国中に祝福されながら奪っていった女──興味以前に感情が、彼女の内面への理解を拒否した。私が欲しくてたまらないものを簡単に手に入れた彼女に、人間として女として、嫉妬しないほうが間違っていると思った。
 さらに、普段の努力をぶち壊しにする奇行かと悩みながらも、義姉がいるというだけで数年来の日課を見直すのが癪で、私は兄様の衣類の洗濯をそれまでどおり続けていた。それを習慣づけてからは、他人にその役目を任せるなんてとんでもないことだと思うようになっていた。兄様の匂いが染みこんだそれを使って、嫁き遅れの侍女が何をするか知れたものではない。私自身の卑しさからくる疑念だとは重々承知していたけれど、兄様を包む衣を他人に触れさせるのは、冗談ではなく本心から嫌だった。それを清められるのは、妹である私だけなのだ。
 義姉が来てからは、彼女にこれを譲らなければいけないのだろうかと、いつ洗濯物を取りあげられるか戦々恐々していた。もちろんそれは杞憂に終わったのだけれど、とにかく兄様か義姉にやめろと言われないかぎり、この役目を手放すつもりはなかった。私が妹として兄様の体にしてあげられる、唯一の奉仕だと思っていたから。
 義姉の懐妊が明らかになったのは、そんな新生活に慣れてきた矢先の、挙式から二月後だった。さすが兄様は何をするにも完璧で迅速で強力……などと馬鹿なことを考えて自分の中でやせ我慢した。時期からして、必要最小限のお勤めで義務を終わらせていたらしいのが救いだった。
 ──ほんとうに苦しいのは兄様だ。私以外の女と、なんて、きっと気持ちわるかったろうに。閨で吐いたりしなかったかしら。エルト兄様は潔癖だから。私なら、兄様以外に触れられるなんて考えるだけでぞっとする。兄様の手や唇での愛撫は、ほんの軽い触れ合いでも、たとえ私によこしまな気持ちがあっても、いつも清められている想いで受け入れることができた。長いことかけて築いてきた私たちの聖域を、他人に踏みにじられるなんて。私にとって兄様は、何度他の女に犯されても聖域であり続けるけれど、本人にしてみれば穢れたという思いはどうしても拭えないはずだ。私が兄様の立場なら、そんなことをされる前に身投げして死んでしまう。兄様もきっと死んだほうがましなほどの恥辱を受けたはずだ。でも、王だから耐えなくてはいけない。可哀相な兄様。兄様は穢れてなんかないことを、もう一度きちんと言ってあげなくては。また余計な気を回して私に触れてくれなくなったら困る。兄様自身、嫌な思いをした後でも、私を抱きしめれば癒される気持ちになるはずだから──。
 そんなふうに、義姉だけでなく自分の品性まで貶めることをつらつら考えて、後で自己嫌悪に陥ることもなくなる。私の体で兄様を慰めてあげなくてはと思いながらも、兄妹愛を保つという決心が邪魔をして、どうすることもできない焦慮に身を焦がす、そんな毎日からは解放される。私は前向きにそう考えることにした。
 義姉は妊娠安定期に入ると、お腹が大きくなる前にレンスターの実家へ戻っていった。慣れない異国の城よりも、故郷の空気で静養しながら臨月を迎えるということだった。それが理由の全てだったかどうか、やはり私はあえて知ろうとしなかったけれど、彼女がいなくなることで随分楽にはなった。義姉の存在を気にしながら暮らしていると、兄様と会っていても、義姉の目を盗んでいるようで惨めになったし、どんどん嫌な子になっていく自分自身がやるせなかったから。
 義姉の出産に前後して、大国グランベルが東の辺境イザークから奇襲を受け、国家間の緊張が高まる中、彼女は産後もレンスターから身動きが取れなくなった。兄様もこんな時期に国を空けるわけにいかず、産まれた子供に会いに行くことはできなかった。もちろん私も、甥であるその子の顔も知らない。
 戦争は嫌だったけれど、その子に会わずにすんで安堵する気持ちもあった。その子は、兄様が他の女に犯された証だった。私以外が産んだ兄様の子だった。私以外で兄様と血の繋がりを持つ者だった。目の当たりにすれば私の胸は憎悪と羨望と嫉妬で張り裂けてしまうだろうし、同時に、兄様の分身であるその子を愛しいと思わないはずがない。ややこしい感情を抱かされるのは兄様だけで沢山だった。
 私は義姉の心情だけでなく、兄様が妻子をどう思ってるかも知りたくなかったし、兄様も話題に出さなかったから、また兄妹水入らずになると、兄様が結婚していることも時々忘れていた。あれは一時の悪夢だったとさえ思えた。兄様の変わらない態度のおかげで、私の隔意も次第に薄れていった。兄様を純粋な気持ちで愛することはもうできないけれど、心煩わされることが減れば、あとは自分の劣情を抑えればいいだけだった。

 ちっぽけな私の、その世界の外で、戦乱の空気は大陸中を覆い尽くすようだった。すべてが終わった後世、皮肉と安堵を込めて“聖戦”と呼ばれることになる、人類史上最悪の大戦争の嚆矢(こうし)はすでに放たれていた。
 グランベルは報復攻撃として、イザークに大軍を派遣した。手薄となったグランベルに、今度はヴェルダンが攻め込んだ。ヴェルダンは精鋭部隊による反撃を受け、逆にグランベルの属国とされてしまった。
 大陸の勢力図が日ごとに塗り替えられる現状は、アグストリア諸公連合にとっても対岸の火事ではなかった。
 隣国ヴェルダン陥落の報を受け、諸公の間では議論が紛糾していた。驚いたことに、意見の大多数を占めるのは、グランベルの国軍本隊がイザークにあるうちに挙兵すべしという主戦論だった。
 兄様の下で戦略を基礎から学んできた私には信じがたい愚かしさだ。何を夢見ているのか知らないけれど、グランベルとアグストリアでは地力が違いすぎる。兵力だけでなく、所有する神器の数を見ても、グランベルは六。対するアグストリアは兄様のミストルティンだけなのだ。いかな獅子王が局地的な戦いで勝利し続けたとしても、国家規模の戦力差を覆すことはできない。実戦を兄様に任せきりにしてきた彼らには、そんなこともわからないのだろうか。
 そんな折、賢王と謳われたアグストリアの盟主イムカ様が暗殺された。最大の影響力を持っていた和平派の死で、諸公内での反グランベル気運はさらに高まった。
 兄様が心血を注いで守ってきたアグストリアも、戦乱の災渦から逃れることはできなくなった。
 悪いことに、ヴェルダンを制圧した部隊を率いていたのは、兄様の盟友シグルド様だった。その友誼に基づいて、グランベルとの衝突を避けようと、アグストリア諸公を牽制してきた兄様は、内通者の汚名を着せられ投獄されてしまった。
 私の怖れていたことが現実になった。兄様は戦場では無敵だし、敵対国の動向を読みとる洞察力も神がかっているけれど、味方の裏切りに関しては、可能性すら考慮の外に置くようなところがある。
 新たな盟主となったシャガール王への態度を見てもそうだ。半ば公然と軽侮される愚王に対して、兄様はイムカ様と同じように礼を尽くし、陰口ひとつ叩いたことはなかった。親殺しの簒奪者という信憑性の高い噂も、兄様は信じていないようだった。そんな卑劣漢を主君と仰がなければいけない不条理は、王の理想に忠実に生きてきた兄様にとって、理解の範疇を超えるのかもしれない。
 兄様のような人には、正面の難敵よりも、同胞の皮を被った狗の汚れた牙が命取りになる。若年でありながらアグストリア全土の熱狂的な声望を集めている兄様に、シャガール王らのお門違いの悪感情は、怨念にまで膨れ上がっていたのだ。
 私は失神に逃げそうな心を必死に押しとどめながら、クロスナイツの副官イーヴとその手勢を集めて、今後の方針を相談していた。
「あまりご案じなさらぬよう。陛下ほどの方が易々と拘禁されるからには、何かお考えがおありなのでしょう。短慮は禁物です」
「もちろん私も、その点では陛下を信頼しています。けれど陛下は、忠節や信義が何より大事という人ですから、今の盟主の許ではどんな無理難題を押しつけられるか……」
 その時、息せききって駆けこんできた兵士がいた。
「シャガール王がノディオン討伐の命を下しました! 現在こちらに向けて進行中の軍勢があります!」
 私はさすがに耳を疑った。グランベルを攻めるのではなかったのだろうか。それでなくても、どうしてこんな時期にわざわざ内乱を起こそうとするのか。
 私は確信した。シャガールは狂人だ。もう敬称をつける気にもならなかった。
「シャガールは、グランベルに向けて兵を配備しているのでしょう? 陛下がお連れになったクロスナイツは、そちらとは真反対のシルベールに駐留しているのでしょう? 彼らが背後を衝けば、シャガールなどひとたまりもないのでは?」
「それをできないのが騎士であり、クロスナイツというものでして……」
 私の質問に、ばつが悪そうにイーヴは答えた。「彼らには個人の意志での行動が許されておりません。指示を迅速に正確に行き渡らせるため、戦場では余計な感情と思考を排するよう、徹底的に訓練されております。それはほとんど本能的なもので、たとえ主君を捕らえられたとしても、本国ノディオンを攻められたとしても、エルトシャン陛下直々のご命令がないかぎり、シャガール王に敵対するよう動くことはありますまい。陛下が不在となれば、クロスナイツ本隊は案山子も同然なのですから」
 私は姫にあるまじき唸り声をあげてしまった。兄様といい、騎士という生き物の行動理念は、にわかに受け入れがたいものがある。
 私にとっては、シャガールの狂気のほうがまだ理解しやすいかもしれなかった。兄様と深い関わりをもつと、ある種の人間はまともでいられなくなる。狂信的なまでの忠誠心をクロスナイツが抱くように、気が変になるほどの恋慕を私が抱くように──。
 アグストリアの民衆は皆、兄様が次期の盟主となることを望んでいた。イムカ様も再三その可能性を仄めかしていたという。盟主の長子という地位にありながら一顧だにされなかったシャガールが、それとはまるで対照的な獅子王へ長年募らせてきた敵愾心の前に、大局的な判断力など塵の如しかもしれない。
 私にも経験があるので忸怩たる思いだけれど、情愛にせよ怨嗟にせよ抑圧された激しい感情は、その内圧が高まりきったとき、人に思いもよらない行動をとらせる。シャガールはグランベルを二の次として、獅子王を追い落とす絶好の機会をものにしたのだ。自分が起こそうとしている戦争になくてはならない戦力を、好きこのんで敵に回すのだから、本末転倒な狂気としか言いようがない。
 私はどうするべきだろう。ノディオンの守備には、私の護衛として残されたイーヴたちしかいない。抗戦か逃走か、いずれにしても私の指示が必要なのだ。
「一つ、よろしいでしょうか」
 考えこむ私に、イーヴが言った。「我らはラケシス様をお守りするよう命じられました。ノディオンではなく、ラケシス様をです。あの陛下が我らごときに頭をお下げになり、『頼む』と仰られました」
 そう。それは決まっている。城など捨てて逃げろ、安全な場所に身を隠せと兄様なら言うだろう。兄様が自由の身であれば、私もおとなしくそれに従っただろう。
 私たち兄妹が育ったノディオン、兄様の帰る場所──それでも、兄様が自身よりも大切にしてくれる、私のこの身には代えられない。私は兄様のために、自分に傷一つつけてはいけないのだ。
 けれど、狂人が支配するこの状況はすでに、理性の人である兄様の予測を超えているかもしれない。私は最悪の事態に備えて、自分にできる全てのことを考え、動く必要がある。
 陰謀の犠牲となり、配下も当てにできず、兄様は孤立無援で薄暗い牢にいる。今、完全に兄様の味方といえるのは私しかいないのだ。
 もし兄様の窮地が一刻を争うもので、助けを必要としていたら。私の動かせる兵力で救えたかもしれないのに、みすみす見殺しにしてしまったら。そうなったら、私は未来永劫、自分を許せない。
 たとえ憎まれても、私を危険にはさらしたくないと兄様は言った。
 私も、兄様を失うくらいなら、まだしも憎まれたほうがいい。大切な人の生死さえ危ぶまれる今、その意志に忠実に自分だけ逃げ続けたからといって、それは愛を貫くことにはならない。私はそう思う。
 寡兵のクロスナイツに向けて、私は姿勢を正した。
「シグルド様に救援を要請します。あの方とは旧知の間柄ですし、陛下とも親しいご友人でいらっしゃいました。この窮地を見過ごすことはなさらないはずです」
「しかし陛下拘禁の件に関しては、彼らのヴェルダン制圧が事の発端……あの部隊を介入させると、ますます事態がこじれるのでは」
「いずれにせよシャガールはグランベルに侵攻するつもりです。衝突するのが早いか遅いかだけの違いでしょう。シャガールがグランベルに勝てるはずはありませんから、悪くすればヴェルダンのような逆侵攻を受ける羽目になります。そうなればアグスティで身動きの取れない陛下は、グランベルの判断で一方的に処断される恐れすらありますし、進退極まったシャガールも陛下に何をするかわかりません。私たちは差しあたりシグルド軍に身を隠し、機を見て陛下をお救いします。あなたたちの力はそのときに貸してください」
 私は一息に言った。大きな声は出ないけれど、高い声域は、部屋の隅々までよく通った。
 しわぶき一つ立たず、その場にいる全員の視線が私に注がれる。私は顔を上げたまま、そのすべてを見返した。
 まるで兄王陛下の檄を受けているようでした──後でイーヴはそう言った。
「我々が最も尊ぶべきは陛下のお命です。たとえ一時ノディオンを侵されても、陛下さえご無事ならいつでも再生できるのですから。最悪の場合は、私よりも陛下を……エルトシャン陛下だけは、何としてもお救いしてください。──よろしいですね?」
「はッ!」
 クロスナイツは一斉に礼を返した。

 少数精鋭のシグルド軍は、私の要請に迅速に応えた。
 私はノディオンに彼らを迎え入れ、無力に泣き暮れる姫として、ただ兄様を救ってほしいと懇願した。兄様の親友でありグランベルの騎士でもあるシグルド様には、それ以上のことは言えなかった。
 エルトシャンを捕らえろとグランベル本国から命令されれば、シグルド様はそれに従うしかない立場なのだ。それでも、兄様たちの友情はよく知っている。余計なことを話さなくても、できる限りのことはしてくれるはずだった。
「グランベル王にはすでにお許しを得た。シャガール王子が父親であるイムカ王を暗殺し、グランベルに攻撃を仕掛けようとしていたとの情報も、王はすでにご存知だった。王は、和平派のエルトシャンを救出することはグランベルとしても必要だと仰られ、私にその役目をおおせつけられた」
 挨拶もそこそこにシグルド様はそう言った。すでに上層部の指示で、この城を拠点にアグスティまで攻めのぼる作戦は決定済みのようだった。
 すぐ兄様の許へ行けるのは助かるけれど、出来すぎた話でもあった。やはりグランベル側もこの機に版図を広げるつもりらしかった。
 前面に立つのはシグルド様で、彼の友であるノディオン王エルトシャンの救出が戦いの目的だと、周辺国には通知されるようだ。戦争はえてして綺麗なお題目で糊塗されると、歴史の授業で習ったとおりだった。
 それならそれでいい。兄様を侵略の口実に使われるのは気分が悪いけれど、贅沢は言っていられない。それで兄様への助けが早まるなら、利用できるものは何でも利用するつもりだった。
 先に裏切ったのはシャガールのほうだし、もうノディオンには連合の盟約に従う義務はない。騎士でも王でもない私には、その義理もない。この戦争はグランベルが勝つに決まっているから、そちらに肩入れする意味で、ノディオン城はもともと明け渡すつもりだった。
 売国奴の責任は、全部この馬鹿王女が被ればいい。囚われの身だった兄様は清廉なままだ。シャガールさえ盟主の座から追ってしまえば、その地位を継げるのは兄様しかいないのだから。
 兄様を頂に据えたアグストリアなら、グランベルの属国となった後でもそれなりの平和が約束される。兄様は愚王に従う必要がなくなり、国は豊かに、民衆は幸せになる。私はそれで満足だし、万々歳だ。
 ただ、私がグランベルに協力していると知られて、逆上したシャガールに兄様を害されるわけにはいかないから、この戦争の間、ノディオンは同盟ではなく占拠されたという形で、城の運用はすべてシグルド様に任せたいと申し出た。
 私の提案に、シグルド様は生返事で答えた。私のような小娘の意図など考慮するまでもなく、最初からノディオンは好きに使うつもりだったらしい。
 シグルド様には打算というものがまるで働いていないようだった。アグストリアに進軍したのも、ただ親友を救うためで、それ以外の目的など思いもよらない。エルトシャン救出のためアグスティを陥(お)とせという本国からの指令も、好意的に楽観的にとっている。兄様とは違った意味で純粋で、視野が狭いのだ。けれど、現在この人が率いている癖の強い部隊には、そういった性格の指揮官が必要なのかもしれなかった。
 グランベル本国の増援を待たず、私兵だけで行動を起こしはじめたシグルド様に、私は驚いた。それは、親友が心配だからというより、目先の目的まで何も考えずに突っ走る、ただの無謀だと映った。
 実際、胸に秘めた深慮遠謀があるわけでもなく、その戦法は行きあたりばったりの力押しそのものだった。
 ただ、その力が並外れていた。ヴェルダンがたった一部隊で制圧されたという話には、兄様はあの国の兵力を完全に封じていたのだと思っただけだったけれど、シグルド軍自体の戦力も侮れないものがあった。
 神族の末裔たちを中心に、あらゆる系統の能力者が紆余曲折を経て集まった、奇蹟のような混成部隊。その陣容には、シグルド様の人徳と一言では表せない、運命の悪戯すら感じる。
 彼ら一人一人が異常に強かった。質が高いというより、単純に強い。もちろん兄様に匹敵するような者はいなかったけれど、部隊を編成できるほどの数の神族は、それだけで充分な脅威だった。
 戦術と呼べるものがなくても、寄り合い所帯での結束は固く、四、五人で協力して戦うのは慣れているようだった。彼らならそれだけで、十倍の兵とも互角に渡り合えた。それはむしろ、神族の力を最大限に活かす戦い方かもしれなかった。
 シャガールの送り込んできた先遣隊を簡単に蹴散らし、そのまま破竹の勢いで各地の城を制圧していく。強大な個人による連続攻撃で、片っ端から敵をなぎ倒していく。その様は、アグストリアを蹂躙する暴風のように思えた。
 シグルド軍の破天荒な強さだけでなく、兄様のいないアグストリアの脆さにも私は唖然とした。連合諸公の無能ぶりは今の私にとって都合の良いことだったけれど、兄様はこれまで一人でアグストリアを守ってきたのだと、今更のように思った。
 シグルド軍は精強とはいえ、たかだか一個中隊の規模である以上、クロスナイツのような連携・波状攻撃で押し包めば、どんな勇者でもいずれは討ちとれるはずだ。なのに連合諸公は、一度下した命令は出しっぱなしで指揮に柔軟さのかけらもなく、同じように大雑把な作戦をとる異能者集団の前に、ろくな反撃もできず潰敗を続けていた。足並みの揃わない、無意味に開いた部隊の間隙は、シグルド軍に補給と回復の余裕を与え、結果として典型的な各個撃破の憂き目にあっていた。
 仮にも一国の命運をかけた戦争で、その帰趨が明らかとなるのに一月もかからなかった。

 陥落間際のアグスティ城を、私は西の崖から見つめていた。
 眼下の峡谷では、城の守備兵を連れて逃走しようとするシャガールが、それを阻むシグルド軍と最後の衝突をしている。兵数ではまだシャガール軍のほうが上だというのに、士気の差は歴然だった。それは戦闘というより、一方的な掃討戦の感すらあった。
 この局面に至って、イーヴたちには兄様の救出に向かわせた。もう支援魔法が必要な段階ではなく、乱戦の中を突っきるには私は足手まといだ。ここは彼らに任せるしかなかった。
 城がもぬけの殻で、グランベルの増援部隊もアグスティ領内に到達していない今が、クロスナイツの手で兄様を助け出せる最後の機会だった。シグルド様を疑うわけではないけれど、陣中見舞いにやってきたグランベル貴族たちとどんな密談が交わされているかわからない。兄様の身柄を敵国に奪われる前に、私たちで拘束を断つ必要があった。
 私は手をかたく握り合わせて祈っていた。
 イーヴは、兄様を除けばアグストリア最強の騎士だ。その指揮下にあるクロスナイツも、戦意を失いかけている守備兵などで止められるはずがない。
 なのに彼らはまだ、兄様を連れて戻ってこない。開戦からずいぶん経っている。シャガール軍の兵士たちは包囲網の突破を諦めたのか、その抵抗も下火になり、剣戟の音も収まりかけているのに。いくらなんでも遅すぎる。
 ──まさか兄様、もうすでにシャガールの手にかかっていたんじゃ……。
 私は居ても立ってもいられず駆け出した。
 すると、ひときわ目をひく白馬とその騎手の金髪が、戦場に向いた私の視界に入った。
 兄様だ。遠目でも、あの姿を見間違うはずない。
「兄さ……!」
 叫ぼうとして、思いとどまる。
 戦場にいる兄様の気を逸らしてはいけない。この距離で気づくとも思えないけれど、私たち兄妹の繋がりなら万が一ということもある。兄様が無事ならそれでいい。
 兄様は、唯一まだ混戦状態となっている区域に飛び込んで、私の視界から一瞬消えた後、血まみれの男を一人抱え、そのまま北へ疾駆した。顔が見えなくなる寸前、兄様の双眸がちらりとこちらを向いた気がした。
 私はほっと息をついた。もう、私にできるのは待つことだけだ。

 危険のなくなったアグスティ城の門をくぐると、所在なげに立ち尽くしているイーヴたちが見つかった。彼らは私の姿を認め、後ろめたそうに顔をそむける。私は先に言ってあげることにした。
「陛下はご無事です。先ほどお見かけしました」
 彼らに広がる安堵は見ていて爽快なほどだった。
「あなたたちは陛下にお会いできなかったのですか?」
「それが……」
 兄様が囚われているはずの地下牢では、イーヴたちがどれだけ探しても人っ子ひとり見つからなかったらしい。他に収監者がいなければ、兄様について訊くこともできない。ただ、鉄格子を左右にこじ開けられた牢が一つあり、それがイーヴたちの希望を繋いでいた。
「おそらく陛下は自力で脱出なさったのでしょう。アグスティで戦端が開かれる気配があれば、武人である陛下が唯々諾々と縛についたままでおられるはずがありません。瀕死のシャガール王をさらい戦場から離脱した、恐ろしく強い騎士がいたとも聞きました。陛下のことですからご無事だとは思いましたが、状況が明確にならないままラケシス様にご報告にあがるのはどうかと……」
 言い訳がましい科白は最後まで聞いていなかった。こちらにやってくる見慣れた姿に、私は意識のすべてを奪われていた。
「兄様ぁ!!」
 さっき我慢したぶん思いきり叫んで、兄様の許に駆け出す。「兄様! 兄様! 兄様!」
 イーヴたちの目も気にせず、勢いもそのままに兄様の胸に飛びこんだ。
「危険な目に遭わせてしまったな……」
 激突の衝撃が私に伝わらないよう巧みに受けとめて、兄様は言った。
 私はふるふるとかぶりを振った。申し訳ないけれど、私にとっては自分の命より兄様のほうが大事だ。
「……素手で牢を破って出てきたのですって? まるで怪物ね」
「呪力強化も施されていない普通の鉄格子だったからな。シャガール陛下も本気で俺を拘束する気はなかったのさ」
 兄様はまるでこたえない様子だった。こんな人のために右往左往していた私は何なのだろう。私は涙ぐんだ顔のまま、少し怒ってみせた。
「すごくすごく大変だったのよ」
「ああ。大まかな事情は知っている。シャガール陛下の話は要領を得ないし、想像の埒外にあったことも多いので、うまく全貌が掴めないが……」
「シャガールは無茶苦茶だし、シグルド様たちは別の意味で無茶苦茶だし、それはもうとんでもないことだったわ。エルト兄様だってそうです。シャガールなんかをわざわざ助けに行ったの?」
「シャガール陛下は俺の主君だ」
 即答された。声を荒げられたわけではないけれど、自分の言動を思い返して私はしゅんとなる。ただでさえ私は兄様の前で幼児退行するきらいがあるのだから、はしゃぎすぎないよう気をつけなければいけないのだった。
「ラケシスが前線から離れるまで、俺は高台で見ていた」
「……やっぱり、気づいてらしたのね。兄様ならもしかしたらと思っていました」
「クロスナイツの運用といい、戦い方としては理想的だったな。後方からの魔法支援は心強い。麾下に死者を出さずここまで来れて、イーヴも助かっただろう。彼我の位置を把握し、安全を確保する判断力にも、俺は安心した。だからシャガール陛下の救出に専念できた」
 私はこの戦争の間、主にクロスナイツの回復を担当する形で戦闘に加わっていた。型破りなシグルド軍との共同作戦は無理だったけれど、独自に兄様を助けるつもりの私たちにはさしたる問題でもなかった。
「……ごめんなさい。私がいると逆に兄様を心配させるし、アグストリアとの同士討ちもいけないとわかっていたけど……もしものことを考えると、どうしても来ずにいられなかったの」
「本来ラケシスは、俺が案ずる必要などないのだろうな……お前の守護者たらんとするのは俺の身勝手に過ぎない。世界に向き合う者としては、制約に縛られた俺より、ラケシスのほうがあらゆる面で優れているのだから」
 真剣な表情を崩さないままの手放しの賞賛は、今の私には責められているようにも聴こえてしまう。かといって、助けにきて何度も謝るのはおかしな話なので、私は違うことを訊いてみた。
「エルト兄様、これからどうなさるの」
「まずは状況の確認をしたい」
「きゃっ」
 兄様はいきなり私を抱え上げた。不自然な腕力で、幼児を扱うように、連れていた白馬に横乗りさせる。
「戦場だけでも気になった点がいくつかある。話を聞かせてくれ。お前の視野が一番広そうだ」
「私にできることなら何でもしますけど……」
 兄妹の再会に気を利かせたのか、イーヴたちはすでに立ち去っていた。
 兄様はこの後、グランベルとの会見に赴くのだろう。何とも言いがたいことだけれど、連合諸公内の主戦派はこの戦争で全員死んでしまった。シャガールも瀕死だというし、アグストリアの全権を担って講和の場に立てるのは兄様しかいない。
 早急に情報を集めなければいけないのだ。徒歩でのろのろと見回るわけにはいかないのだ。
 だから、私が兄様の腰に腕を回しているのも、仕方のないことだ。兄様は馬を飛ばしているし、しっかりつかまっていないと、落ちたら危ない。
 第一、兄様が私を抱きながら馬を操っているのは、別におかしなことではない。未婚のノディオン王女の後ろで手綱をとっていいのは獅子王だけだ。兄と妹が一緒に馬に乗っている、ただそれだけのことだ。どこにも後ろ暗いところなんてない。
 私は浮きたつ気持ちを抑えながら兄様の耳元に口を寄せて、兄様が投獄されてからの出来事をできるだけ正確に伝えた。ノディオンへのシャガールの派兵から、連合諸公の対応、シグルド軍の行軍経路、そしてこの戦役の裏で暗躍しているらしい暗黒教団のことまで、あますところなく。シグルド様は電光石火の進撃でアグスティを目指すのかと思えば、いきなり盗賊退治など始めて、私はひどくやきもきしたのだけれど、そういった事柄や感想も交えて、シグルド軍の陣容についても知っていることは全部話した。辛辣だと思われるような意見でも、兄様には隠す必要がない。
「シグルド様が陥とした城は全部、後発のグランベル軍に占拠されました。ノディオンも……」
 私は一旦言葉を切って、叱責に怯える子供の気持ちで続けた。「……同盟国の保護という名目でグランベルの兵士が詰めてます」
「ノディオンに関して、お前の判断は最善だった」
 兄様の短い返事の裏にある感情を、私は敏感に読みとった。ノディオンを明け渡したまではいい。けれどその後、私がシグルド軍に同行して戦火をくぐり抜けてきたことを、兄様はやはり快く思っていない。
 それでも私は、今さら後には引けない。
 もうノディオンも平穏無事とはいえないし、安全を求めてという意味でも、私は兄様の許に来るしかなかった。その道のりが少しばかり危険だったとしても、大陸中で戦争が起こっている今、兄様の傍以上に安全な場所はこの世にない。いつかこんな日が来ると思って、せめて兄様の邪魔にだけはならないよう必死で自分を鍛えてきたのだ。
 甘んじて虜囚となった兄様の意図にも、私は気づいていた。もし兄様がこの戦争に加わっていれば、和平の道は完全に閉ざされ、グランベルとの総力戦は避けられなかったはずだ。それは高い確率でアグストリアの滅亡を意味する。だからイムカ様が暗殺された後も、兄様は親グランベルの立場を貫いたのだし、内通者という誣告を受けてさえ弁明しようとはしなかった。体よく出陣を拒否するには、戦争終結までは牢に留まるほうがいいと判断したのだろう。獅子王さえ健在なら自治権は確保できるのだから。兄様はその嫌戦主義からだけでなく、アグストリアを生き長らえさせるため冷徹に大局を見据え、主君の命を絶対とする騎士にできる唯一の行動をとったのだ。
 ただ、アグストリアにはもう後がない。グランベルからは続々と軍勢が派遣され、すでにアグストリアのほとんどの地域で強引な占領統治が行われている。傷の癒えたシャガールが徹底抗戦を貫くなら、今度こそ兄様も戦わざるをえない。
 その時、兄様の当面の敵となるのは、おそらく──。
「大陸中の神族で構成された部隊か。その中で、神器の継承者が三人……それとも四人か。最初は目を疑ったが、この惨状も当然というわけだ」
 アグストリア兵の累々たる屍を前に、兄様は怒りを滲ませて呟いた。
 兄様のためなら何人死んでも構わないという、自分でも怖い決意で吹っ切れていた私は、もう気分が悪くはならないけれど、こうして見るとまさに地獄絵図だった。
 強弓の練達による連射で野鴨よろしく狩り落とされた天馬騎士などは、まだましなほうだ。半端に神族を追いこんだ者たちは、普通の死に方すらできなかった。
 風の刃で大地に刻まれた幾筋もの溝は、人間など容易く引き潰す、巨獣の爪跡を思わせる。
 何回斬られたのか数えきれない繿褸(らんる)のような死体や、鎧の硬度を無視する剛剣で真っ二つにされた重装兵は、イザーク王家の剣士たちの仕業だ。彼らは祖国が交戦中のグランベルに寝返ったわけではなく、シグルド様個人の客分としてアグストリアとの戦いに参加していた。
 他にも、元が人体だったことが辛うじてわかる消し炭や、槍ぶすまに貫かれたような肉塊など、どれをとっても人智を超えた力がありありと窺い知れる痕跡だった。神器は持ち込まれていなかったけれど、濃い神族の血は、それだけで絶大な力をもたらすのだ。
 もちろん、彼らの異能が活かされるのは破壊や殺戮に限ったことではない。手足を失い脳漿臓腑をはみ出させた、どう見ても助かりそうにない兵士たちを、私とは比べものにならない魔力で一瞬にして完治させてしまう聖杖の使い手もいた。シグルド軍にほとんど戦死者がいないのは、その御業のおかげだ。
「エルト兄様……勝てますか?」
 兄様もこんな部隊を相手にした経験はないはずだ。そう思うと不安になって、つい訊いてしまう。
「戦うからには勝つ。だが、戦いたくはない。──そのあたりが正確だと思う」
 兄様らしい答に安心して、私はその胸に頬を寄せた。
 奇策に頼らない正統派の天才として、兄様は戦術より戦略に重きを置く。敵の性質を把握し、戦闘に際して有利な状況を事前に作りあげておく。被害をいかに抑えるか、そこが重要なのだ。戦いを避けられるならそれに越したことはない。
「『無茶苦茶』というラケシスの感想は正鵠を射ている。これは世の常の戦争ではない。……暗黒教団か。成程、ヴェルダン王やシャガール陛下の乱心も説明がつく。これだけの力が集結する事態は、百年前の大戦以来だろう。それが必要なのだという、何か異質な意志すら背後に感じられる。その意志が、神のものか悪魔のものかは判らないが。事によると、国すら度外視して対応にあたるべきかも知れない……」
「話した感じでは、シグルド軍の人たちは、べつに普通なのよ。神族だからとか人間だからとか全然意識してなくて、でも自分の生まれからくる責任はきちんと知っていて、信じるものがあって、個性も豊かで。あの人たちの共通点は、シグルド様のために戦っている、ということみたい」
「シグルドの周りには自然と人が集い、誰もが進んで心を委ねる。俺は奴のそんなところを尊敬し、怖れていた。グランベルでの奴の境遇は、どう見ても捨て駒以上のものではない。にも関わらず、奴は疑念ひとつ抱かず戦い続けることができる。配下にも、ある種の狂気を伝播させながら。そして、運命を切り開く奇蹟を茫洋と成し遂げ、その挙句、短期間に国を二つ掌握してしまった。自分がどれほどのことをしたか解っていないのだろう。奴にはまるで計算がないのだから。心情からしても戦いたくはないが、実際、敵に回すとあれほど恐ろしい男はいない。シグルドの前に立ちはだかる者は皆、巨大な波に呑まれるような──己の運命と直面するような感覚を与えられるのではないだろうか。その性質は味方だけでなく敵をも増やすだろうが、たとえ死した後もその意志は引き継がれ、永遠に英雄と崇められる。最終的に勝つのは、ああいう男だ」
 兄様は淡々と語る。
 聞いてみると、兄様とシグルド様には似通った部分が多い。その純粋さ、使命への忠実さ、騎士であること、国と民を背負っていること、人を惹きつける魅力、神の恩恵──表面だけでも随分ある。私にとって重要な、兄であるということも、そこに含めていいかもしれない。
 ただ、両者は決して交わらない印象を受ける。兄様に信服する者が、同じような意味でシグルド様に従うことはありえないだろうし、その逆も然りだ。
 シグルド様は、兄様とは違った魅力によって人を狂わせる。兄様と似て非なる力。『運命』と言い切ってしまえる類の理不尽。
 兄様は一歩一歩堅実に進みながら、死線も幾度となく越えて、血の滲む努力の果てに才能を開花させ、今の自分を作りあげた。そんな人からすれば、シグルド様の力は納得しがたいものではないだろうか。兄様が何年もかけて築いてきた国の調和を、シグルド様はあっさり壊してしまったのだ。
 それでも、やはりシグルド様は兄様の親友なのだろう。愛憎といっていい複雑な感情を、兄様の抑えた口調から私は感じとった。それは女子供が入りこめない世界のようで、私はなんだか、たまらない気持ちになった。
「シャガール陛下はマディノに移っていただく。宮廷を構えられる規模で、侵略を受けていない城は、もうあの北の果てにしかないからな。俺はシルベールの砦に留まり警戒にあたろう」
 アグスティ城に馬首を戻して、兄様は言った。
 私はいろいろ小賢しく考えを巡らす癖がついてしまっているけれど、兄様の行きつく先がどこだろうと、私にとっては大して意味がないのかもしれない。イーヴたちの前でどんなに虚勢を張っていても、私の願いは結局のところ一つだけだった。
「お傍にいさせてください」
「お前も、命を懸けて守る。だが、仮にシャガール陛下とお前が危地にあれば、俺は陛下を先に助ける。そんな男でも、傍にいたいか」
 この戦地にあって兄様は、私との再会ですら表情を緩めることがなかった。私を包んでくれるこの腕はもちろん、頼りがいのある兄のものだ。けれど、艶めいた感情など入る余地のないその顔は、私を共に戦う仲間と認めてくれてもいた。
 戦場の検分に私を付き合わせたことからも、それはわかる。兄様はアグスティまで来た私を見て、その決意を汲みとり、意志を尊重し、一人の戦士に相応しい接し方をしてくれるようになったのだ。それは兄様が私に対して表した、初めての変化だった。
 兄様の最後の確認に、私は唇を結んで、しっかりと頷いた。
 私の居場所は兄様の傍だ。何があってもそれは変わらない。

 講和会議で兄様は、シャガールが襲撃の準備をしていた事実に全く触れず、グランベルの侵攻を全面的に非難した。シグルド軍が介入するきっかけとなったシャガールの挙兵は、連合内のノディオンに向けられたもので、理由はどうあれ先に国境を越えたのはグランベル側ということになるから、そういった論陣を張ることも可能だった。祖国の存亡に際して、兄様も高潔なだけの君主ではなかった。
 シグルド軍を引き入れたノディオン王女の責任が問われるかも、と私は身を竦ませたけれど、反論しようとしたグランベルの高級官吏は、兄様が凄絶な殺気を叩きつけて黙らせてしまった。そうでなくても、ちょこなんと座っているだけの小娘を気にかけるのは兄様くらいのものだから、子供の特権で追及されることはなかったかもしれない。
 さらに兄様は、私が伝えたアグストリア軍の被害や、検分してきた惨状、イザークとヴェルダンが受けた過剰な報復攻撃までも議論に持ち出し、近年のグランベルの有り方がいかに建国の理念にもとるものであるかを訴えた。そして、世界の中心にして法の守護者たるべき大国グランベルにとって、この無体なやりようは永く後世まで残る汚点であり、人心を惑わし、ひいては国家の基盤さえも危うくする凶行であるとして、不当に占拠した地から即刻退去するよう要求した。
 兄様の語気には、アグスティ城周辺を見回っていたときと同じ怒りが籠められていた。巧妙に野心を隠しながら着々と版図を広げていくグランベルと、何より自分自身への強い怒り。
 表立って参戦するわけにいかなかった兄様からすれば、虐殺されたアグストリア兵たちは、見殺しにしたも同然なのだ。しかもこの戦争は、ノディオン王エルトシャンへの救援が建前になっている。侵略の口実に使われ、自分を救うという名目で国土を侵される──それは兄様にとって、牢に入れられたことよりも激しい屈辱だろう。ノディオンが無傷だからといって、何の慰めにもならない。
 射竦める覇気と苛烈な舌鋒に、軟弱な文官たちは顔面蒼白となり、泡を吹いて倒れかねないほどだった。グランベル側でまともに受け答えできるのはシグルド様一人という体たらくで、形として兄様は親友を一方的になじることになった。
 この戦争の当事者であるシグルド様は、兄様の言い分がもっともだと、平身低頭するばかりだった。本心から親友を心配してアグスティまで来たのに、これではシグルド様の立つ瀬がない。兄様も、グランベルの官吏を均等に睨みつけながら、内心では困っていたはずだ。
 シグルド様はこの期に及んでもグランベル上層部の野心に気づいていないようだった。兄様の無事を確認した後はさっさと帰るつもりだったらしい。アグストリア全土を巻き込んだ戦争を、親友への救援行動の一過程くらいにしか思っていないのだから、シグルド様はまごうことなく『本物』だった。
「エルトシャン、頼む、一年だけ待ってくれ。一年あれば平和は回復され、アグストリアとの関係も修復されるだろう。そうすれば我らは国に戻る」
 人の良いシグルド様の提案に、兄様は微かに笑みを漏らす。
 戦後処理という観点から見れば、一矢も報いることなく完全敗北を喫したアグストリアにとって、ありえないような好条件だった。今のアグストリアには、自治のための最低限の人員すらない。グランベルの保護下に入る一年は、治安維持軍を再編するために頃合いの期間といえた。
 道義に基づいて弾劾したとはいえ、和平派の兄様に否やがあるはずもなく、その場で公文書に調印され、領土返還の誓約が取りつけられた。敗残国にそこまで譲歩するつもりがなかったグランベル官吏たちは、我に返って大慌てしたけれど、もう後の祭りだった。
 グランベルから派遣されたのが与し易い文官ばかりでなく、公爵位の人間が乗り出していれば、こうはいかなかったかもしれない。国軍本隊がイザークにある現在、グランベルに残っている公爵は、政治に関与しない近衛軍指揮官アルヴィスとクロード神父だけだった。シグルド軍の進行速度は、グランベルにとっても対応の追いつかない、予想以上のものだったのだ。
 依然厳しい状況に違いはないけれど、アグストリアは征服支配されるのだけは免れた。
「この酒、受け取ってくれ。キュアンと三人で酌み交わすつもりだったんだが、腑に落ちない事態になってしまったからな」
「最近は落ち着いて話もできず残念だ。いずれまた会おう、シグルド。願わくば友として……」
 役人連中がほうほうの体で逃げ去ってしまうと、兄様とシグルド様は事もなげに旧交を温めていた。この人たちの付き合い方は、やっぱりよくわからない。

 兄様と私はその後すぐ、着のみ着のままでシルベールへ向かうことになった。
「こうと決めたら命がけか。よく似てるよ、君たち兄妹は」
 シグルド様はそう言って、とことん兄様についていこうとする私を、笑顔で見送ってくれた。
 これから一年、シグルド様はアグストリアの統治者として君臨するのだろう。その部隊の構成員も皆、指揮官に付いて王都アグスティに留まるようだった。
 シグルド軍の人たちは、初めて戦場に出る私を何かと気づかってくれていた。彼らは純粋に、私たち兄妹のために戦ってくれた。人外の力がアグストリア兵に振るわれたことに兄様が怒りを覚えるのは当然だけれど、私にとっては良き協力者たちだった。
 その後ろに目を覆いたくなる死屍の山を築いているとはいえ、普段は気のいい人たちなのだ。平気で人殺しをしているわけでもない。兄様や私と同じように、それぞれの譲れない理由のために戦っている。
 諸般の事情から打ち解けることはなかったけれど、利用されているだけの彼らに敵意を向けても仕方ない。グランベルの思惑など彼らには関係ないのだ。その行動のために何がもたらされようと、私が彼らを恨むことはないと思う。兄様もそうだろう。たとえ利害がぶつかることになっても、私も彼らとは戦いたくなかった。

 駐留するクロスナイツにすでに指示がいっていたのか、シルベールでは万事整えて迎えられた。
 その夜、長い一日を終えて疲れているはずなのに、私の目は冴えたままだった。
 隣にしつらえられた兄様の部屋を、私は訪ねることにした。
 気が昂っていたのだ。この奇妙に特別な日を、もう少し続けたいと思っていた。真夜中に二人きりになるのは、私たちは契ることができないと知ったあの日以来、二年ぶりだった。
 兄様はバルコニーで、グラスを片手に物思いに耽っていた。
 地上では警戒態勢であることを示す、いくつもの篝火が焚かれている。それは私たちの金髪を輝かせ、光の薄衣のように体を照らした。
「眠れないのか」
「ん……」
「この砦の寝台は、ラケシスには堅すぎるな」
「こんな時だもの。我慢します」
「おいで」
 隣に座った私を、夜の冷気から守るため、兄様は上衣で包む。とても自然な動きだった。もう私もいちいち照れない。兄様に寄り添って、その体温にくるまれる。張りつめていた心身がほぐれていく。
 男女の修羅場さえも経験している間柄だというのに、まだ近しい距離で想い合っていられるのが嬉しかった。死線を乗り越えて、戦友という新たな絆ができたためだろうか。今の私たちは、遠慮も緊張もなく、心地良い関係を保っていける気がした。
「シグルド様に貰ったお酒、一人寂しく飲んでらしたの? 私にもください。前から試してみたかったんです」
「ラケシスにはまだ早い」
 端的な口調は変わらないけれど、慈しむ声音は、もう兄のものに戻っている。妹が悪いことをしそうになったら穏やかに押しとどめて、それでもどうしてもとせがまれれば、笑いながら言うことを聞いてくれる。時々とても厳しいけれど、基本的には甘い保護者で、優しい兄様。
 私はうきうきして、昔のように少し強気な態度にでた。
「だいじょうぶ、お酒くらい飲めます。私、もう十六歳だもの」
「ああ──」
「なあに? そのため息」
「詠嘆感嘆の嘆息だ。そう、ラケシスはもう十六なのだな……感慨深い」
 兄様の物言いは老成している。「一目見ただけで誰もが惹きつけられる、そんな歳になったのだな。お前が異性と話すのを見るのは、やはり複雑だ」
 シルベールに移る前、シグルド様に付いて何人か、私を見送りにきた人たちがいた。兄様は彼らのことを言っているようだ。たしかにあの中にいた男たちは、私にとって兄様以外で初めての男友達といえるかもしれない。
「あの人たちが私に近づいてくるのは、エルト兄様の妹だからとか、ノディオンの王女だからとか、そんな理由ばかりです。もちろん私はそれを誇りに思っているから腹は立たないけれど。私自身が惹きつけているわけではないわ」
 兄様は私の言葉に、少し思案するような顔をした。
「エルト兄様の昔のお知り合いだという方、あそこにいたのよ」
「誰だ」
「前に話したでしょう? 傭兵のベオウルフさん。私を守ってくれるよう、あの人にも頼んだのですって?」
「……その彼がラケシスに何を言ってきたのか、聞かせてくれ」
 ベオウルフは、私より後にシグルド軍に加わった傭兵だった。早くアグスティに行きたくて焦っていた私は、感情のまま前線に出るのはやめろとたしなめられたのだ。私は最初煩がったけれど、エルトシャンからの言付けだと言われたので素直に聞き入れた。私が安全圏を確認しながら戦闘支援できたのは、その注意のおかげかもしれない。
「真偽はさておき、俺の旧友だと信じるに足る証左があったのか?」
「証左? それは……何もなかった、です」
「お前は思考力は卓越しているのに、妙なところが抜けているな。まったく、面白い奴だ」
「うぅ……兄様の昔のお友達って、あの人が言ったこと嘘ですか?」
「いや……俺が忘れていることもあり得る。話を聞くかぎり、悪い人間ではなさそうだ。彼がそう言うなら信じておけばいい」
「あ、あのね、私、いつもはそこまでお馬鹿じゃないんです。知らない人にはついてかないし、きちんと考えてから行動するし、あの時簡単に信じたのはエルト兄様のお言葉ということだったから……ううん、疑わなかったわけではないのよ。ただ、もしほんとうに兄様のお友達なら、そんな素振りを見せるのは失礼でしょう? だから──」
「ラケシス、ラケシス……嘘だとは言っていない。お前が一時でもそれを信じたなら、俺も信じる。ベオウルフがお前を守ってくれたのは事実なのだろう。それなら彼は、俺の友だ」
 兄様はそう言ってくれるけれど、よくよく考えてみれば、兄様が私を任せるほど信頼している友人のことを、私が知らないはずはない。妙な下心はなかったようだし、あれは混じり気なしの親切からの忠告だったけれど、兄狂いのラケシス姫ならエルトシャンの名を出せばすぐ従うと思ったのだろうか。実際その通りなのだから反論の余地もない。噂されているのはノディオン近辺でだけと思っていたのに、そして最近はずいぶん自重してきたはずなのに、流れ者の傭兵でさえ知っているほど、私の悪評は大陸中に広まっているのだろうか。
「エルト兄様は、私なんかのどこがお好きなの?」
 言ってから、しまったと後悔した。今回の事件でも私はろくに兄様の役に立っていないし、ダメ子にも程があると思ったら、つい情けなさが口に出て、さらにどつぼにはまってしまった。
 けれど考えてみると、それは今までしたことのない質問だった。兄様はいつも当然のように私を愛してくれたから。この際だから聞いてみよう、行くところまで行ってしまおうとおかしな決意をして、私は兄様の応えを待った。
 兄様は追憶の遠い目をしていた。
「その心が。俺の弱さを認め、包んでくれた優しさが。俺の穢れを知りながら、変わらぬ愛を注いでくれた情けが。死をも乗り越える勇気が。悪を見据える気丈さが。周囲を和ませる明るさが。毅然とした生き方が。意識せずとも表れる思いやりが。折れず曲がらない意志が。いつまでも失われない可憐さが。狂気に至るほどの一途さが。そこから還ってこれる強さが。守らずにいられない儚さが。裏表のない素直さ誠実さが。常に真摯な姿勢と、激しい情愛が。負の感情を引きずらぬ清々しさが。だがラケシスが抱くのなら、怒りや憎しみさえも美しい──」
「う、うああ……」
 いたたまれなくなって逃げようとした私は腕を引かれ、兄様の膝に座らされた。「あぅっ」
「その知性が。俺のすべてを読み取ってくれる感受性が。常識に捉われない自由な発想が。経験に依らずとも正道を見出せる直観が。世界のすべてを見通せる叡智が。尽きることなく快い言葉を与えてくれる機転が。
 その力が。あらゆる技能に通じる素養が。千辛万苦の訓練に耐える精神力が。魔法への適性も素晴らしい。俺には無い、溢れんばかりの天稟を宿す妹が誇らしかった。剣の才にも舌を巻いた。俺の身勝手でその道を閉ざしてしまい、すまなかったと思っている」
「わ、私、兄様にそこまで言ってもらえる子じゃ、ないです……!」
 兄様の腕の中で、私は身もだえした。兄様はいつになく意地悪だ。真面目にやっているだけにたちが悪い。酔っているのかしらと思ったけれど、兄様の肌はいつものように真っ白で、上気すらしていない。
「豊かに変化する表情が。躍動に満ちた動作が。柔らかな肌とその温もり、白磁のすべらかさ、甘い香りが。日ごとに美しくなる姿が。その女性の体も顔形も、一点の曇りもない完璧な造形だ。
 ──俺はそれらすべてが、とても愛しく、尊いものだと思う」 
「に、兄様ぁ……」
「ラケシスの恥じらいには男女問わず保護欲、所有欲が刺激されるだろう。耳に心地良い、鈴を鳴らすような声の透明感にも、それを紡ぎ出す唇にも、誰もが魅了されるだろう」
 兄様はようやく腕をほどいた。
「単なる事実だ。利発なお前がなぜ気づかないのか不思議でならない。驕るところのない無垢も美点の一つだが、お前はいい加減、自分の魅力を理解したほうがいい」
 私はぐったりして、もう動く気にもならない。
「お世辞にしても言いすぎです……」
「俺がラケシスに世辞を言う必要があるか? 仮にそれらが無くとも、俺はやはりお前を愛し続けるだろう。お前が何も持たなかった頃から──母上の胎内にいた頃から、ただ存在してくれるというだけで俺はラケシスを愛していた。肉親とはそういうものだし、寄る辺のなかった俺にとって、新たに生まれてくるラケシスは一筋の光明だった。この世界を煉獄から楽土に変えるほどの意味を持っていた……もちろん今もそうだ」
 ああ。もう。
 どうして私はこの人と結ばれないんだろう。信じられない。夢も希望もあったものではない。
 星の数ほどの恋人たちの中で、どうして兄様と私だけがこんな目に遭うんだろう。想いが本物なら、愛してしまう相手は選べないはずだ。心の拠り所を兄妹に求めたからといって、たった一人への大切な感情を兄妹に注いだからといって、生涯の愛の対象を兄妹以外に選べなかったからといって──それは私たちの罪なのだろうか。
 褪せない気持ちで十六年も、想い合い、求め合い、必要とし合い、尊敬し合い、愛し合ってきた、こんな男女、他にいないと思う。異性への欲望と家族愛が同居した、私たちにとってはこの上なく幸福な、狂気。彼が兄であり、私が妹であるからこそ、この想いは唯一の愛にまで高まっていくのに。
 兄様を手に入れることばかり考えていた時期の私になら、「私のどこが好き?」などという質問には絶対答えてくれなかったろう。本心を包み隠さずぶつけてくれるのは、その想いを正しい形で受け止められる今の私だからこそだ。欲望をあらわにして濃厚な愛の言葉をくれるのは、耐えることを覚えた今の私だからこそだ。一線を越えない決意をした私を信頼して、兄様は危うい所まで近づいてきてくれる。
 私は兄様の上衣にくるまって、目を閉じた。
 ──いいわ、兄様。今の私は兄様に触れていても、そんなに切なくない。禁忌の手前すれすれで愛されてあげる。だから今日は、このまま眠らせて……。
 妻子ある王が妹姫と共寝している──こんなところを人に見られたら、とも思ったけれど、構うことはない。不実というには当たらない。この人の胸の中はもともと私の場所だった。私たちは最初の想いを保ち続けているだけで、これはむしろ誠意ある触れ合いなのだ。
 この一ヶ月、兄様の安否を思って、私はずっと不安だった。ほんとうに怖かった。せめて今日だけは、兄様の生命の温もりをこうして感じていたい。
 疑う者は勝手にさせておけばいい。私たちの兄妹愛は、誰が何と言おうと、完璧に清らかなものだ。……残念なことに。
 兄様の言葉はなおも続いている。
「ラケシスがどれだけ人を惹きつけるか自覚していてほしいのだ。実のところ、お前に魅力など無いほうが、俺にとっては安心できる。明確すぎる美は、真実の愛を探すためにはむしろ障害となるのだから。上辺の美しさしか見えない男たちに、俺は危惧を抱かずにいられない。ラケシスの目は信用しているが、その前に現れるのが真実お前を愛してくれる男であればいいと、俺は切に祈る──」
「ちょっと待って……」
 聞き捨てならない発言に微睡みを破られて、私は顔を上げた。「私が他の人と……なんて、まだそんなこと考えてらしたの? それが言いたかったの?」
「他者との間で幸せを育むのは『善い』ことなのだ。俺には無理だが、ラケシスならまだそれができる。ラケシスは俺の理想を超えて成長していく……俺の唯一の誇りだ。軽蔑してくれていい。他の男を愛してもいい。ラケシスがさらなる輝きを放つためなら、俺の許から去ることさえ構わない。だが、互いがどんなに離れてしまっても、ラケシスと築いてきた絆だけは失いたくない……この幸福を否定したくない。だから俺は、当然あるべき可能性として、お前を手放すことも覚悟しなければいけないと思う。その上でお前を愛さなければいけないと……」
『兄様の、ばかああああああああ!!!!』
 と砦中に響く声で怒鳴ってやろうか。
 喉が潰れてもいいから人生最大の絶叫を浴びせたい気分だ。思いきり息を吸いこんで、耳元で。
 兄様こそ自分を過小評価しすぎだ。超絶的な近親愛者のくせに、自己愛というものがまるでないのだ。国家の道具である自分は愛を受けとる資格などないと、本気で思っているらしい。
 どうして私が兄様への欲火を抑えているのか。兄様との愛を守るためだ。王の信義を重んじる兄様の意志を尊重しているからだ。
 たしかに兄様と私では愛の極点まで辿りつけない。だからといって他人との間に女の歓びを求めるくらいなら、自分の命を武器に、兄様の気持ちを無視して契ってもらっていた。二年前のあの日から、いつでも機会はあったのだ。
 たしかに他人となら、兄様とは育めない絆が得られるかもしれない。けれど兄様は、ほんとうにその結末で満足なのだろうか。たとえ禁忌の想いで苦しめたとしても、私は兄様の支えになれたはずだ。私がいなくなれば兄様は、思い出だけを糧に、生まれ持った責務やのしかかってくる業と一人で向き合わなければいけない。許されざる想いを胸に秘めて、一生孤独で。それでは、兄様の幸せはどこにあるのだろう。
 私は何もできないけれど、せめて兄様の支えであり続けると決めたのだ。
 兄様への想いは、私がずっと見据えてきた指標だった。兄様の挙げた美点がほんとうに私にあるのなら、その礎はすべて兄様への愛に繋がっていた。
 兄様の許から旅立つことは、私にとって成長を意味しない。それは自分への裏切りであり、これまでの人生を全否定することだ。生まれてからずっと抱いてきた想いを偽物にしてしまうことだ。エルトシャンの妹に、そんな不徹底はありえない。
 私の一番が兄様でなくなる──もしそんな未来があるのなら、今から祈りを捧げておこう。心変わりした瞬間、私のこの身が八つ裂きになりますように、魂が地獄に堕ちますように。
 おまじないすると、少し心が落ちついた。
 私は、ふーっ、と息を吐く。
「今回だけは我慢してあげます。次またそんなこと言ったら、本気で怒りますから」
「すでに充分怒ってないか、お前……つねるな、痛い」
「私、絶対に浮気しないもの。兄様以外の男性と仲良くすることなんて一生無いわ。兄様を助けるために必要だったから、最低限の受け答えをしていただけ。ご存知のくせにご存知のくせにご存知のくせに」
「頚動脈がまともに絞まってるぞ。放してくれ、苦しい」
「私は兄様に話しかけようとする女に逐一目を光らせていましたけど、兄様も同じ事をしてらしたのね。私たちは似たもの兄妹で、兄様は私の強化版ですから、ほんとうは私よりずっと嫉妬深いのかも」
「いろいろとつらい。もう勘弁してくれ」
「私も謝らなければいけないわ。兄様が少しでも寂しい気持ちになるなら、もうあの人たちとはお話ししません。だから兄様も約束してください。二度と他の人のことは言わないって」
「突付くな。こそばゆい」
「や、く、そ、く」
「わかった。もう言わない。噛むな」
 兄様を押し倒し、またがり、しがみついた、とんでもない体勢で、私はくすりと笑った。
 兄様の愛はほんとうに想像を絶している。この人は私に対して、父親代わりの責任まで背負いこんでいるから。彼を兄としても男としても愛することで私の想いが倍になっているとしたら、兄様のほうは妹と娘と女への愛で三倍だろうか。
 そのぶん愛情表現がややこしくもなるのだ。ただでさえつらい恋なのに、そのうえ余計な懸念まで抱えるなんて、ひどい心労だろう。私も早く大人になって、保護者の責任から解放してあげなくては。もう兄様は、私を失う恐怖に耐えなくていいのだ。
 私が大人の女性になったら、どんなふうに愛してくれるだろう。少し楽しみだ。私たちの愛は、まだ発展の余地があるらしい。
 けれど今はまだ、兄様から見ても、やはり私は子供なのだ。無限の可能性を秘めた、不安定な存在。
 兄様は、私の想いを否定したり疑っているわけではなく、それとは別の次元で気づかってくれている。兄様以外への関心が薄く視野が狭い私に、未来の指針を一つずつ示してくれている。
 兄様は十六年間、ずっとこうやって、私を大切に育ててくれたのだ。私は兄様からどれだけのものを貰ってきただろう。
「アレスも……」
 兄様の息子の名前を、私は初めて口にした。「アレスも、きちんと育ててあげましょうね。こんな素敵な父様がいるのだから。私ばかり恵まれていて、申し訳ないもの」
 私たちは見つめ合った。
 大丈夫。私たちの絆は何があっても失われない。今の私は、愛に自信が持てる。
 義姉様には申し訳ないけれど、兄様が最初に愛したのは私で、どうやらその気持ちが変わることはありえないらしい。太陽が西から昇っても、天地がひっくり返っても、世界最後の日が来ても、兄様の心は曲がらない。
 兄様はその情愛から、私の背信さえ認めようとしている。綺麗なところも穢いところも、すべてを含めて私を愛してくれる覚悟なのだろう。
 私も兄様の全部を認めて愛してあげよう。アレスと義姉様も、私の愛に容れよう。たとえ義務での結びつきだとしても、彼らは兄様の一部なのだ。
「……面倒を見てやってくれるか?」
「ええ。私、結婚しませんから。自分の子供だと思って可愛がります。……あ、でも義姉様は嫌がるかしら」
「いや……彼女も、お前と仲良くできれば喜ぶだろう」
「落ちついたらレンスターまで迎えに行きましょうね。私たち二人で」
「ああ」
 私の手に、兄様は指を絡めた。私が良いことを言ったら、いつもは頭を撫でてくれるのだけど、今は握手するようにそうした。私が教え諭されるばかりの妹ではなく、兄様の隣に立てる人間に近づいていると、そう思っていいだろうか。
 アレスには私をどう呼ばせよう。「おば様」はもちろん論外だ。「ラケシス様」も、今ひとつ特別という感じがしない。やはり「姉様」だろうか。ときどき内緒で「母様」なんて呼ばせてみたりして。
 なんのかんの言いながら一生兄離れできない私は、義姉様を呆れさせるだろう。しまいにはあの大人しい義姉も怒って、私に説教を垂れはじめる。部屋で過ごすことの多い義姉様はたぶん読書家で、弁舌も達者だろう。けれど、口喧嘩なら私も負けてはいない。あれこれ思考をこねくり回すのは慣れているのだ。
 兄様はその仲裁に入る。そんな俗事を強要された試しのない兄様は、滅多にないくらい困った顔を見せてくれるだろう。そのうち女二人に責めたてられて大弱りするのだ。『どちらが大切なのか』などという難詰に至ったら、もう勘弁してくれとしか言いようがない。私たち義姉妹は獅子王をやりこめられる稀有な存在だ。そこからおかしな仲間意識が芽生えていくかもしれない。
 一家四人──それはとても暖かな響きだった。兄様と私の愛を、閉じた禁忌ではなく、周りに広げていく。未来への希望に満ちた光景だと思えた。
 けれど私たち兄妹は、アレスにも義姉様にも、生きて会うことはなかった。
(つづく)


『楽園へ』のイラスト・バナーは月路沢渡さんのデザインによるものです。TOPに戴いたイメージイラストに加え、情景描写に使わせていただいた14枚のイラストをご紹介します。(リンク先ページは氏が運営されているサイト内のコンテンツです)



『楽園へ』は任天堂株式会社より販売された『ファイアーエムブレム 〜聖戦の系譜〜』のノベライズ作品です。原作シナリオのご確認には、ノーブルさんのサイト内の『聖戦の系譜 会話集』をお薦めします。
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